『福音主義神学』(日本福音主義神学会)41号に、「『神のかたち』であるキリスト」という文章を載せていただきました。アウトラインは下記のようなものです。関心ある読者がいらっしゃるでしょうか。
「神のかたち」であるキリスト
序
復活の日の午後、エマオ途上で、主イエスは二人の弟子にモーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事柄を彼らに説き明かされた。すると、それまで落胆し冷えきっていた弟子たちの心はうちに熱く燃やされたという。
神のご計画全体の中にキリストの姿を見出して読むことは、どのようにして可能なのか。もし、実際に、そのように読むことができたならば、我々の心にも燃えるものをいただけるのではないか。本稿は、コロサイ書1章における創世記1章の「神のかたち」理解を出発点として、キリストを中心として神の計画全体の理解に展望を開き、心燃やされ宣教していくことに益するようにと書かれた。
1.コロサイ書による創世記1章26、27節の「神のかたち」理解
(1)封じられてきた「神のかたち」キリスト論
オリゲネス、エレナイオスらは、人がそれに基づいて造られた「神のかたちeikon theou」とは御子キリストであると理解していたが、アウグスティヌス以降、そうした理解は封印されて現代に至っている。
(2)コロサイ書による「神のかたち」の解明
コロサイ書1章15節と70人訳創世記1章26,27節を照合するならば、人間創造における「神のかたち」とは御子であることがわかる。人はもともと御子に似た者として造られた。
(3)創世記1:27の邦訳について
コロサイ書にもとづくならば、創世記1章27節の邦訳は、「神のかたちとして創造し・・・」(新改訳第三版)と訳すよりも、「神の像の如くに之を創造り・・・」(文語訳)のほうが的確であると思われる。
2.「見えない神のかたち」――神の計画のキリスト論的解釈の必然性
無限の神は有限の我々には見ることができない。その見えないお方を見えるようにしてくださるお方が「神のかたち」である御子である。とすれば、我々は御子を通して神を知るという道をとるほかないのであり、御子を抜きにした神認識は抽象論にすぎない。神の御子を中心として神を知るときに、我々は真の意味で神を知ることができる。
3.「神のかたち」なる御子を軸として神の計画全体を展望する
(1) 人間の尊厳のリアリティ
(2) キリストの受肉の理解
(3) 聖化の理解
(4) 「神のかたち」と教会の職務
(5) 予定から終末まで
結論