苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

摂理と人生

                   使徒23:12-35
                2011年2月6日 小海主日礼拝説教梗概


 まず反面教師としての祭司長・律法学者と40人のテロリストたちについて。彼らはサンヒドリンの裁判でパウロをなき者にできなかったので、今度は暗殺を企てた。祭司長たちというのは、当時の世界の道徳的・信仰的指導者である。ところが、彼らは神の正義を行なっているつもりで、暗殺計画を立てたのである。ユダヤ教社会を守るためという大義のためには、目的のためには手段を選ばずという考え方と、自分たちこそユダヤ教会を守るという大義を担っているという高ぶりだった。会社でも学校でも検察でも教団でも、どのような組織でも組織防衛という価値観にしばられるとき、神のみこころが見えなくなる。
 というわけで教訓の第一は、神のみこころを知りたいならば、自らしがみつくものを神にゆだねて、謙虚に神の前に自らの行動、その動機をふりかえることがたいせつである。自分が正しいと思うときにはなおのこと謙虚さが重要である。

 次に、神の摂理の下に生きるとはどういうことかをパウロの行動に学びたい。時には、神は奇跡という方法をお用いになることがあるが、通常は一般的な摂理によって御心が成っていく。この時には、主はパウロの甥と千人隊長のように神を信じない人々の心のうちに働きかけられた。またパウロは、泰然とかまえて何もしないというのではなく、甥の報せを千人隊長にとりつぐという一見「信仰的」に見えないごく常識的な行動を取った。
 摂理の下に生きる私たちのあるべき姿は、主のみこころが成るために「私を用いてください」という姿勢である。パウロは囚人として、そこでできることをした。また、このパウロの行動は、世の権威を神がおもちいになるのだという正しい認識に裏付けられていた。
 というわけで、第二の教訓は、神の摂理の下に生きるというのは、神のみことばに正しくたって、神の御心が成るために、自分を神に用いてくださいとささげていくということである。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ったならば、私たちは、神のみこころがなるために私を用いてくださいという姿勢がたいせつ。