苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

新改訳2017  「神のかたち」の件

 新改訳2017翻訳にあたって、委員会あてに修正をお願いした一つに、創世記1章26,27節がある。第三版では次のようになっている。

1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

それが2017では以下のとおり。

26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」

 筆者が求めたのは、26節は「われわれのかたちとして」を「われわれのかたちにおいて」または「われわれのかたちに」に、27節は「ご自身のかたちとして」を「ご自身のかたちにおいて」または「ご自身のかたちに」に、「神のかたちとして」を「神のかたちにおいて」または「神のかたちに」に修正してほしいということであった。
 理由は、第一に「として」と訳された「ベ」という前置詞は[in](において)と訳されるのがもっとも一般的で自然な翻訳であり、英訳のほとんどもinと訳していること。
 第二に、創世記1章26,27節の奥義をコロサイ書1章15節は開示して、「御子は見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれたお方」であるとして、「神のかたち」は「御子」であるとしていることである。御子は、創造論的な意味で神と人との仲保者であるということである。人間は直接的な意味で神のかたちであるのでなく、神のかたちである御子を介して、神のかたちのかたちなのである。(それゆえ、救済においても御子は神と人との仲保者たりえる)。この理解は、新奇な解釈ではなく、アウグスティヌスより前には古代教会においてかなり一般的なものであった。

 翻訳委員会には別の見解があったようで、訳文は修正されなかった。しかし、脚注に、配慮がされている。創世記1:26の「神のかたち」と、コロサイ書1:15の「神のかたち」が、相互に参照されるようにという脚注がついているのである。これは感謝。