(2)ルターの神学
a.「sola scriptura聖書のみ」:形式原理
ルターの足取りから宗教改革の二大原理があきらかになってきた。教会史の常識として、ルター神学の形式原理は「聖書のみ」と実質原理は「信仰のみ」と言われる。
「聖書のみ」が教会における第一の権威であるということである。ローマ教会は今日に至るまで聖書とともに「聖伝」というものを教会の権威としている。『カトリック要理』によれば、「聖伝とは古代教会の信仰宣言、公会議、教導職の証言、古代教会の記録、教父たちの著作、古代からの礼典などによって示されている」もので、これらは「使徒たちがキリストと聖霊から受け、教会に伝えた」とされている。ルターは「聖伝」も過ちを犯し矛盾したことを言っていおり、ただ聖書のみが教会の上に立つ権威であると主張した。公会議は自体は信仰を拘束する権威を持つものではなく、ただ聖書と一致するかぎりで承認されるものである(『公会議と教会について』)。
他方、ローマ教会は一五四五年、宗教改革に対抗してトリエント公会議を開くが、ここでは教会の権威を改めて規定し、教会は聖書と教義の誤らない解釈者であると決議する。さらに一八七○年の第一バチカン公会議ではローマ教皇が公的に発言したことは誤ることがないという決定をした。こういうわけで、ローマ教会においては結局、聖書とともに聖伝、教会、教皇が最高権威として並び立つということになる。だからローマ教会では、聖書に明らかに反している母マリヤについての教えなども教会に混入している。
プロテスタント宗教改革は「聖書のみ」が教会にとっての最高権威であると宣言した。近代の聖書批判に走った自由主義神学は別として、本来プロテスタント教会においては、教理上の論争の至高の審判者は聖書で語り給う聖霊にほかならない 。
<追記11月30日>
聖書を至高の権威とした点においては、ウィクリフも同様であり、特にウィクリフは母語への聖書翻訳を行なったが、彼の時代には聖書が一般に普及しうるための技術がなかった。ルターの時代には、グーテンベルクの活版印刷が普及していたので、ルターの書いた諸文書と彼の翻訳した聖書は多くの人々の手に渡ることになった。
ちなみに、かつて西ヨーロッパ・ルネサンスの三大発明として、羅針盤、火薬、活版印刷術が挙げられたが、前二者は中国で、活版印刷術は中国宋代または朝鮮の高麗で先に発明されていることが今日では常識となっている。
b.「信仰のみsola fide」「恵みのみsola gratia」:実質原理
では、形式原理たる聖書が宣言する真理の中核つまり実質原理はなにか。それは、「信仰のみ」ということである。新約聖書のパウロ書簡は、人が神の前に義とされるのは律法の行いによるのではなく、神の恩寵を受けとる信仰によることを示している。
「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であて、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ三:二十−二二)
アウグスティヌスは自力救済主義者ペラギウスとの論争を通じて、人が救われるのは、神の恵みによることを明らかにしたが、中世に入ると徐々に救いには神の恵みのみではなく、人の行いも必要であると説かれるようになっていた。表向きはアウグスティヌス主義という名で呼ばれながら、その中身は半ペラギウス主義の神人協働説となっていたのである。中世教会千年の土台をすえた大グレゴリウスは、アウグスティヌスの影響を強く受けたが、救済論においては、半ペラギウス主義だった。アウグスティヌスは人間は堕落して自由意志までも正しく機能しなくなったと言ったが、グレゴリウスは、人はアダムにあって堕落したが、自由をすべて失ったわけではなく、ただ意志の善性を失ったのみだとして、神の「先行の恩恵」が人間を動かして善を願うように導き、新たにされた自由意志は「後続の恩恵」と共に働いて善を行い功徳を積むのだとした。要するに、カトリックでは人は救いを得るためには、神の恵みだけでなく人の功徳が必要とされ、教会が定めた徳を積むことが奨励され、教会は神と人との間を取り持つ仲保者となる。
しかし、神はルターの深刻な罪認識をともなう霊的危機の体験を通して、もう一度徹底的な恵みによる救済をあきらかにされた。ルターは人間の原罪は本源的罪であり、本性の堕落であり、生来のパン種であるとした。人間本性は常に悪に傾き、格別それは不信仰という形で現れる。したがって、罪人は自由意志をもって自らを救いへと導くことはできない。人間には奴隷的意志があるのみであり、すべてはただ神の意志にかかっている。
神は罪人に律法と福音によって働きかけられる。律法は人間が何をなすべきかを教え、かつそれをなし得ない罪の病の現実をあらわしに、福音はこれを癒す薬を与える。福音のうちには神が罪人に与える贈り物としての義が啓示されていて、人はこれをただ信仰によってのみ受け取る。「信仰のみ」がキリストにおける神の義を受け取るための器官なのである。しかも、その信仰は、聖霊によって引き起こされる再生の最初の要素である。したがって、罪人の救いのすべては神の恵みにかかっている。
ペラギウス論争でも見たように、ここでも罪論は神学のアルキメデス点として働いている。徹底的な罪認識は徹底的な恩寵救済へと必然的につながるのである。ただルターがアウグスティヌス以上に福音の真理を明白にした点は、神の御前では罪人が義人になってから義と認められるのでなく、罪人が罪人であるままで義人と認定されると主張したことと、罪人は神の義を「信仰のみ」によって受け取るとしたことというべきであろう。「われわれは実際は罪人であるが、しかし憐れみたもう神の認定のゆえに義人であり・・・、現実においては罪人であるが、しかし他方、希望においては義人である。」(「ローマ書」)罪人はここにこそ救いの確かさと平安を得ることができるのである。Simul iustus et peccator.(シミュル・ユストゥス・エト・ペッカトール)同時に、義人であり、罪人である)と言い習わされるところである。