苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

近世教会史1 ルター(1)生涯  <追記>近世教会史の序

追記近世教会史の序
 古代、中世の教会史ノートは基督神学校のクラスのために準備をしてきた講義ノートを公開したのであるが、近世―近代の教会史はかつて某キリスト教誌に連載したプロテスタント教理史概観の原稿に少々加筆したものであるから、内容は大雑把で平易である。
 教会の具体的な歴史を捨象して、教理の展開を扱うような「教理史」については、筆者は「ヘーゲルの絶対精神の自己展開」のキリスト教版の焼き直しではないかと疑問をいだいている。神が展開された具体的歴史のなかで、教理史は正しく把握できるというのが筆者の考えである。そのような意図で、この原稿は書かれた。
 なお「近世」とは宗教改革のあった16世紀、宗教改革の成果をまとめた17世紀を意味し、「近代」は18世紀、19世紀を意味している。

1.ルター:聖書のみsola scriptura、信仰のみsola fide
 プロテスタント教会の歴史はマルチン・ルター(1483−1546)の宗教改革に始まる。宗教改革から近代プロテスタントの四つの主要な流れが流れ出る。すなわち、ルター派、改革派、アナバプテスト派、そして英国のプロテスタント諸派である。
宗教改革について語り出すには、どうしてもマルチン・ルターその人について語らなければならない。それは神がマルチン・ルターという強烈な個性の霊的経験を通して、聖書に啓示されながら千年間も曇らされていた信仰義認の教理を再発見させたからである。そして、この信仰義認の教理こそプロテスタント教会の根本教理である。

(1)生涯
a.きまじめな修道士
 1483年1月10日、ザクセンのアイスレーベンで、マルチン・ルターは父ハンス・ルターの次男として生まれた。父ハンスの教育方針は峻厳なものであって、ルターはこの厳格な父親に神の姿を二重写しにして見たと言われる。鉱山夫から身を起こして小さな坑山の所有者となっていた厳格な父ハンスは、自分の息子には学問と名誉を手に入れさせるべく、エルフルト大学文学部(現在の教養課程にあたる)に進ませた。ルターは卒業間近に、同級生が試験中に急性肋膜炎で急死するという経験をする。ルターは死の恐怖におののいた。
 文学部を終えて彼は父の命令にしたがって法学部に入る。当時、身分制度社会のなかで法律家になることは庶民の出世のための登竜門であった。王政が強くなっていく時代の中で、法律を操る官僚たちは「法服貴族」となっていったからである。ところが、神はルターについて別の計画を持っておられた。法学部にはいった直後、ルターは落雷のなかで死の恐怖におののき、修道士として自分の身を捧げる誓いを立て、アウグスティヌス会の修道院に入ってしまうのである。死の恐怖が当時のルターにつきまとっていたことをうかがわせるもう一つの事件だった。
 ルターはきわめて謹厳な修道士となった。ルター自身が後年、述懐するところによれば、「ほんとうのところ、私は敬虔な修道士であった。私は非常に厳格に修道会の戒律を守ったので、次のように言うことができる。『もしこれまでひとりの修道士でも修道士生活によって天国に入ったのなら、私もそこに入れるだろう。』と。私を知っているすべての修道士仲間は、そのことを証言してくれるだろう。なぜなら、もっと長く続いていたなら、私は徹夜、祈り、朗読、その他の務めで自らを苦しめさいなみ、そのため死んでしまっていたことだろうから。」(『原典宗教改革史』)
 ところが、ルターが修道に徹して知ったことは、いかに苦行を重ねても霊魂の汚れがきよめられることはできないという事実だった。そこでルターは痛悔をしようとした。痛悔とは洗礼後に犯した罪が赦されるために設けられたローマ教会の秘蹟である。完全な痛悔とは、「父である神と救い主イエス・キリストを愛する心から、その愛に背き、その恩を無視したという理由から、犯した罪を悔やみ、忌み嫌う」ことであり、完全痛悔する者のみが神に罪を赦していただける。他方、不完全な痛悔とは「罪を罰する神の正義を考え、地獄、煉獄、この世における神の罰を恐れて、犯した罪を悔やみ、忌み嫌うこと」である(『カトリック要理』)。不完全な痛悔では神と和解することはできない、とされる。
 さてルターは完全な痛悔をしようとしたが、彼は不完全な痛悔に陥ってにっちもさっちもいかなくなってしまう。ルターは神の正義と神の下す罰にふるえおののいた。また彼にとっては神を愛することは、地獄の罰から救われたいということが動機にすぎないことをルターは知った。その愛は自己追求という罪によって汚れており、この自己追求こそ罪の根源であることをルターは認識する。そして、どう苦行して完全痛悔を求めても自己追求という罪から逃れることができない醜い自己に絶望したのである。

b.塔の経験−−「神の義」の理解
 ルターはいかなる意味でも、自力救済の道は閉ざされていることを認めた。悩むルターは、人に勧められてヴィッテンベルク大学の一角の塔の一室で聖書の研究を始める。特に彼はローマ書の一章十七節に苦しめられた。「神の義は、その福音のなかに啓示されている。」ルターはこの「神の義」とは、神が正義であり、その義によって罪人を罰する義であると考えていた。神は、律法を行うことができずにうちひしがれている罪人を、福音のうちに啓示される義によってさらに苦しめていると彼は誤解していたのである。ルターは後年、次のように言っている「私は義にして罪人を罰する神を愛さず、むしろ神を憎んでいた。なぜならば、私は非の打ち所のない修道士として生きて来たにもかかわらず、神の前で自分が良心の不安におののく罪人であると感じ、私の償罪の行いによって神と和解していると信じることができなかったからである。」
 しかし、やがて聖霊はルターに福音の真理を明らかにされた。すなわち、ローマ書にいう「神の義」とは、神が罪人にお与えになる贈り物としての義であると悟ったのである。「神の義は、この方が義である義ではなく、われわれがこの方により義とされる義と解されねばならない。」(「ローマ書」)神は、罪人がいかに修業しようと自分を義とできないので、キリストの義を贈与としてくださったのである。これが、人は行い(協働)によらず「信仰のみ」によって義とされるという使徒パウロの福音の発見、信仰義認の発見であった。この「信仰のみsola fide」が一般に宗教改革の実質原理と呼ばれる。
さらにルターはアウグスティヌスの著書『霊と文字』のなかに「神がわれわれを義とするとき、神はわれわれにその義をあてがうのである」ということばを見いだして確信を深めている。教理史的にいえば、ルターの救済論は、アウグスティヌスがかつてペラギウス論争を通じて明らかにした恩寵救済主義の復興でもある。だからsola fideはsola gratiaと言い換えることができる。

c.宗教改革へ−−「聖書のみ」sola scriptura
 当時、ローマ教会は聖ペテロ寺院改築のために免償状(贖宥状)を売り出していた。免償制度とはなにか。
ローマ教会では、信者は司祭に罪を告白すれば、教会の司祭を通して、罪が赦され永遠の罰は除かれるものの、有限な罰は残るとされ、現世か来世で、教会の定める善業を行なって、有限な罰を償わねばならないとされ教えられていた。その償いの期間を免除・短縮するために教会が取り成すことを誓うことを免償という。
 ローマ教会においては、教会は一般信者から成る「聞き学び信じる教会」と教皇以下全聖職者から成る「教える教会」とに区別され、一般信者は俗なるものでキリストに直接近づくことができない。信者は地上の「教える教会」と、聖母マリヤを筆頭とする諸聖人からなる天の教会とを仲保者として、キリストに近づくことができる。信者は諸聖人の大量の「功徳の宝庫」のおこぼれに与かることによって、罪の償いを免じてもらい、キリストに至って救われるという。恩寵プラス諸聖人の功徳というわけである。
 この「功徳の宝庫」の教えと煉獄の教えが十五世紀に合体することによって、免償状(免罪符)が登場する。ローマ教会によれば、聖人でもない大多数の信者はストレートで天国には入れず、天国の予備校である煉獄purgatoriumに落ちて、煉獄で清めの試練を受けて償いを果たして後、天国に入るとされる。しかし、もし現世にある信者が死者のために教会から免償状を買ってやるならば、死者はその試練の期間を免除・短縮されて天国へと移されるという。この免償状に対する抗議がルターによる改革の発端となる。
 免償状説教者ヨハン・テッツェルは、「免償状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」(ルター95箇条27番目ベッテンソンp272)と宣伝したので、多くの民衆が彼のまわりに群がった。煉獄で苦しんでいるその人の親も罪赦されて天国へと移されると説いていた。
 ルターはこれに抗議して、「九十五か条の提題」を発表した。ベッテンソンpp269−276。ルターとしては宗教改革など起こすつもりはなく、ただ神の御前における罪が免償状を買うという安易な行ないによって赦されるという教えは、魂を永遠の滅びに陥れる危険なものであるとして、抗議をしたのである。ルターが言いたかったのは、人は免償状を買って神に罪赦された、平安だと思った瞬間、滅びてしまう。逆に、人は自らは神の御前に滅ぶべき罪人であると恐怖しておののくときにこそ、ただキリストのうちに贈与としての義を見いだす道が開かれるのだということだった。
 ルターは、聖書の教師として教会の教えを正したいと思ったにすぎない。ところが、事態はこの後、ルターにとって思いがけない方向へと展開してゆく。ローマ教会当局は、ルターにその見解を取り消さなければ異端として破門すると通告して来た。1519年のライプツィヒ論争では、ルターはペテロの首位制を否定し、教父たちも誤りえるとし、教会会議も誤りえるとし、煉獄の存在は聖書から立証されないとし、キリストのみが教会の土台であると主張した。しかし、それは、コンスタンツ会議で火刑に処せられたヤン・フスと同意見の異端であると断じられた(ベッテンソンpp277-278)。
しかし、さらにルターは文筆活動をもって教皇制度の批判を展開していく。ローマ教皇レオ10世は1520年6月教皇勅書において、ルターを「ぶどう園を荒らす騒々しい野猪」と呼び、破門する。しかし、ルターは同年12月10日、これを他の教令類とともに、ヴィッテンベルクの全学生の前で公然と焼却してしまう。「おまえたちは主の聖徒たちを苦しめたがゆえに、いま永劫の火によって滅ぼされるのだ。」と言いながら(原典宗教改革史p83)。
 さらにルターは1521年にはヴォルムス帝国議会に召喚され、その著書を取り消すことを求められた(ベッテンソンpp287-290)。拒否すれば火刑が待っているという状況であった。時にルターは言った。その末尾、結論部分。P290

「皇帝陛下ならびに領主が単純な答えを求めておられますので、私は両刀論法を使わずに、次のように答えたいと思います。即ち、聖書の証しによって、あるいは明白な理由と根拠によって−−なぜなら、私は、教皇公会議もそれだけでは信用していません。というのも彼らがしばしば過ちを犯し、矛盾したことをいってきたのは明白なのですから−−克服され、納得させられないかぎり、私はすでに述べたように、聖書に信服し、私の良心は神のみ言葉にとらわれているのですから、私は取り消すことはできないし、また取り消そうとも思いません。なぜなら、良心にそむくことは正しくないし、安全でもないからです。わたしは、ここに立つ。わたしはこうするよりほかない。神よわたしを助けたまえ。アーメン」

これぞ宗教改革の形式原理「聖書のみsola scriptura」の宣言であった。