苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ふるさとの海


  (須磨海岸鉢伏山


 兄と須磨の海岸に出かけた。子どものころ、よく歩いて須磨海岸まで泳ぎに行ったものだった。海の水は子どものころに比べると、格段にきれいになっている。当時は、なりふりかまわぬ高度成長期で海も汚れていた。須磨の海岸から南に向けば、水平線の向こうに紀伊半島が望まれて、西を望むと淡路島が見え、明石大橋の影も見える。水族館からJR須磨駅まで、白い砂を踏みしめながら二三十分歩いた。

 その後、須磨寺にも出かけた。子どもの頃、この広壮な寺の境内でよく遊んだ。弁慶がなぎなたで吊り上げたという鐘をゴーン、ゴーンと自由に鳴らしたものだが、小学校3年生の頃、いとこの克己ちゃんが来た夏休み、なにかの都合で針金で鐘をつく棒が固定されていたことがあった。しかたないので、そのあたりの石を拾って鐘にガツンとぶつけて鳴らしたら、あんまりいい音がしなかったけれど、坊さんにコラーッと追いかけられて逃げ出したことがあったなあ。
 私の子どものころの家は須磨寺町の大池のほとりにあった。周囲を桜並木が囲んでおり、池にはボートが浮かんでいて、夜になると寿楼と延命軒というふたつの旅館のネオンが水面に映って美しかった。だが、阪神淡路大震災を経て、今では、寿楼だけ再建されて、存在している。池では小エビやドンコと呼ばれるハゼをつって遊んだ。水が流れ込む小川ではメダカをすくった。またサブマリン707のゴム動力のプラモデルの潜水艦を何度も作っては沈没させた。そうそう、小学校1年生のとき、私はその池でおぼれて死にそうになったことがあった。池は当時の半分の大きさになっている。
 「幼稚園生のころから小学生時代というのは、人生の中でとても長かったような気がするなあ」と兄が話していた。数えれば十年ほどのことにすぎないのであるが、ほんとうにそのように感じられる。そして今、私たち兄弟にとって、「ふるさと」と意識されるのは、この須磨寺町と寺の裏山と須磨海岸なのである。

  寿楼  昔は木造二階建てだった。阪神大震災で壊れて建て直したのですね。下は被災した寿楼。