苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

生みの親、育ての親

 私には生みの親と育ての親がいる。といっても、母教会のことである。神戸にある改革長老教会東須磨教会は生みの親であり、日本同盟基督教団土浦めぐみ教会は育ての親である。浪人時代の夏の終わりに増永俊雄牧師と出会ってイエス・キリストを知り、翌年1月末から先生が仕える東須磨教会に通い始めた。二ヵ月後、遠くの大学に入って後も約1年間、私は増永先生にさまざまの聖書にかんする質問、神様にかんする質問を、毎週2〜3通、便箋五枚にもなる手紙でお尋ねし、増永先生は私にていねいにお返事をくださった。増永先生の神学的DNAは、このときしっかりと私の内に伝えられたのだろう。
 進学とともに筑波に転じて土浦めぐみ教会では、朝岡茂牧師に育てられていくことになった。茂先生の大胆にして緻密、情熱的でかつ知的、傲慢に見えて実は謙遜、都会的で茨城弁、理知的で浪花節という、不思議で大きな器に見守られて献身者として育てられた。
 筆者にとっては生みの親も、育ての親も、ともにたいせつである。生みの親より育ての親というけれど、反対に、血は水よりも濃しともいう。

  筆者が通っていたころの土浦めぐみ教会の小松の会堂