「しゅうちゃん。どういう景色のところに住むかによって、だいぶ人生の損得があるような気がするわ。」と、昔、神戸でいっしょに暮していて、その後、関東平野の住宅街の家にお嫁にいった叔母が言っていたことを思い出します。
私が叔母と一緒にくらした家は、海も山もある神戸の、しかも、須磨寺町でした。目の前には池があって、その向こうには山があり、春は桜の名所で、夏は蝉取り、秋には山がもみじしました。
そこに住んでいるときは、当たり前のように思っていましたが、離れてみると美しいところだったんです。「将来、鎌倉に引っ越したいわ」などと夢見ていた叔母は、早く召されてしまいました。
私は、神戸須磨寺町、妙法寺、つくば、東京国立、練馬、信州南佐久そして、今、苫小牧と移り住んできました。人生、得した分が多いような気がします。
でも、美しい信州に住んでいたとき、「景色の良さなんかぜんぜん関心がない」という親しい牧師がいました。名古屋で育たれたとおっしゃっていましたね。ああ、それに、東京の下町で育ったという先輩牧師を車に乗せて、信州を走ったときにも、同じようなことをおっしゃっていました。幼い日にどういう風景のところに過ごしたかということは、その人の感性に影響するのでしょうね。そういえば、ある数学の先生が、そういうことを言っていました。子どものころの音楽環境が、生涯、その人の音楽生活に影響するのと同じです。