苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

強靭であるためには

 10月5日、松原湖研修会で話した「強靭な皮袋を」という説教に少しだけ手を入れて、本日の礼拝説教としてお話した。その準備のなかで、「強靭」つまり、「丈夫かつしなやか、柔軟である」ためには、どういうことが大事かということを改めてマルコ伝の文脈から教えられたので、以下にメモしておく。
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 丈夫でかつ柔軟に生きるには、どのようにすればよいのでしょうか。それは、ルールを理解し適用するにあたっては「そもそも、これはなんのためのルールなのか」と、ルールの目的に立ち返ることです。
 たとえば、断食のこともそうです。断食はなんのためにするのか?という目的に立ち返る。すると、断食は神の前での罪の自覚と悲しみの表現のためにするものだということになる。すると、「悲しみの宗教」であった時代に断食はふさわしいけれど、花婿キリストが来られたこの喜ばしいときに弟子たちが断食することは、いかにも不適当だということがわかるでしょう。
 また、断食問答に続く安息日をめぐってのやりとりからも、同じことが言えましょう。パリサイ派は「安息日はとにかく仕事をしてはいけない日だ」といううわべのことに固執して、「では仕事とはなにか?」を定義して、安息日にしてはならない「仕事」を千数百もこまごまと規定しました。その結果、会堂礼拝に向かうイエスの弟子たちが麦を手でとってクチャクチャしているのを律法違反だと騒ぎたて、また、イエス様が会堂での礼拝のあと、生まれながら片手のなえた人をいやしてやると、安息日違反だと騒ぎ立てました。
 そもそも安息日律法は、いったい何の為に設けられたのですか。仕事中毒になって、神への愛を忘れ、隣人愛を忘れてしまわないために、神様は安息日を人間に与えてくださいました。ですから、主イエスがなさったように、安息日に神様を礼拝して、そこにいる兄弟姉妹の病気をなおしてやることは、まさに、ぴったりその目的にかなったことだったわけです。
 きちんとしたルールは大事です。そのルールを、そのルールがたてられた目的にかなうように解釈して適用するとき、「丈夫でかつ柔軟」な生き方が出来ます。

 たしか、三浦綾子さんの『石ころのうた』にあったと記憶するのですが、綾子さんが小学校の代用教員であったときのこと。一人の少年が、毎日遅刻してきたそうです。綾子さんは情熱たっぷりの厳しい教員でしたから、この少年を厳しく扱ったそうです。ある日、家庭訪問をする機会が訪れました。それで知ったのは、少年は朝早くまだ暗いうちから起きて、病身のお母さんに代わって家事をしていたので、毎日遅れてきたのだということでした。少年は、遅刻がよくないことだとは認識していましたが、「おかあちゃんのからだには代えられない。僕が毎日叱られればよいことだ。」と考えて、毎日暗いうちからおきて家の用事をすませてから、登校していたのでした。綾子さんは、その実情を知って、自らを恥じた旨、書いていらっしゃいました。

    ヤギの皮袋