苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史21 十字軍(その5) その後の十字軍と後代への影響

5.その後の十字軍

 第2回十字軍(1147-1148)「空虚な理想」。イスラム教徒が盛り返し、エデッサ伯国を占領したことで危機感が募り、教皇エウゲニウス3世の呼びかけで十字軍が結成された。当時の名説教家クレルヴォーのベルナルドゥスが教皇の依頼を受けて、「十字軍は人を殺すためではなく、キリストのために死を受け入れて殺されるために行くのである。十字軍の思想は政治によって圧倒されようとしているが、その性格は福音的でなければならない。」(橋口p139)という理想を説いて各地で勧誘を行い、フランス王ルイ7世、神聖ローマ皇帝コンラート2世2人を指導者として、多くの従軍者が集まった。しかし、大きな戦果を挙げることなく小アジアなどでムスリム軍に敗退。パレスチナにたどりついた軍勢も失敗し、撤退せざるを得なかった。
 第3回十字軍(1189-1192年)は「異教徒の寛容」。1187年に「イスラムの英雄」サラディンにより、およそ90年ぶりにエルサレムイスラム側に占領、奪還された。教皇グレゴリウス8世は聖地再奪還のための十字軍を呼びかけ、イングランド獅子心王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加した。肥満しすぎていたフリードリヒ1世は1190年にキリキアで川を渡ろうとしたところ、落馬し、鎧が重くて溺死した。イングランドとフランスの十字軍が1191年にアッコンを奪還した。その後フィリップ2世は帰国し、リチャード1世サラディンと休戦協定を結んだことで聖地エルサレムの奪還は失敗に終わった。しかし、エルサレム巡礼の自由は保障された。サラディンは聖地奪回したときも、虐殺を働かず、巡礼の自由も認めた。
 第4回十字軍は「大脱線」した(1202−1204年)。ローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけにより実施。エルサレムではなくイスラムの本拠地エジプト攻略を目標としたにもかかわらず、十字軍輸送を請け負ったヴェネチアの意向でハンガリーのザラを攻略してしまう。そこで、教皇は同じカトリック国を攻撃したことで彼らを破門した。ついで、東ローマ帝国の都コンスタンティノポリスを征服する。このとき十字軍による市民の虐殺や掠奪が行われた。フランドル伯ボードワンが皇帝になりラテン帝国を建国した。教皇はこれを追認し、さらにエルサレム遠征を要請したが実施されなかった。こうして東ローマ帝国はいったん断絶し、東ローマの皇族たちは旧東ローマ領の各地に亡命政権を樹立した(東ローマ帝国は57年後の1261年に復活)。
 第5回十字軍(1218〜1221)エジプトを攻略するも失敗。
 第6回十字軍(1228〜1229)は「平和共存」の画期的十字軍。神聖ローマ皇帝フードリヒ2世は、エジプト・アイユーブ朝のスルタン、アル・カーミルと、戦闘を交えることなく平和条約を締結。フリードリヒはエルサレム統治権を手に入れる。ブルクハルトは彼を「最初の近代人」と表現した。1239年に休戦が失効し、マムルークエルサレムを再占領した。1239年-1240年に、フランスの諸侯らが遠征したが、やはり戦闘は行わないまま帰還した。宗教の異なる民族の間に平和共存、聖地共有が可能であるということを示した。
 第7回十字軍(1248〜1249)。アル・カーミル死後、1244年にエルサレムイスラム側に攻撃されて陥落、キリスト教徒2000人余りが殺された。1248年にフランスのルイ9世が遠征するが、アイユーブ朝のサーリフ(サラディン2世)に敗北して捕虜になり、賠償金を払って釈放される。 第8回十字軍(1270)では、フランスのルイ9世が再度出兵。アフリカのチェニスを目指すが、途上で死去。

6. 十字軍の後代への影響

(1)教皇の威信への影響
第1回十字軍は、エルサレム王国、アンティオキア公国、エデッサ伯国トリポリ伯国の十字軍国家と呼ばれる国家群をパレスティナとシリアに成立させて、巡礼の保護と聖墳墓の守護という宗教的目的を達成し、教皇権は威信を高めた。しかし、その後、十字軍が敗退して戦果が上がらないと、教皇の威信の低下という逆の結果をもたらすことになっていった。

(2)地中海の交易再開とルネサンスの準備
十字軍国家の防衛やこれらの国々との交易で大きな役割を果たしたのはベテチア、ジェノヴァといった都市国家である。これらイタリア諸都市は占領地との交易を盛んに行い、東西交易(レヴァント貿易)で巨利を得た。こうして十字軍は、東方の文物が西ヨーロッパに到来するきっかけとなり、後のルネサンスを準備することになった。

(3)封建領主の弱体化
 封建領主たちは、十字軍遠征に自ら出かけるために経済的な困窮に陥ったり、生命を落としたりした。領主不在という状況は、西ヨーロッパの政治的状況を不安定にした。また、十字軍の資金調達の必要から教皇や君主が徴税制度を発達させ、西ヨーロッパの封建領主は、衰退した。 中世崩壊の準備となる。

(5)東方教会ローマ・カトリックの溝が深まる
東方正教会カトリックの和解が十字軍を唱えたカトリック教会指導者側の当初の動機のひとつだったが、両者の間はかえって溝が深まった。両教会は、それまで教義上は分裂しつつも、名目の上では一体であり、互いの既存権益を尊重しつつ完全な決裂には至っていなかったが、十字軍が東方正教会エルサレム大司教を追放しカトリックの司教をおいたことで、溝が深まった。

(6)東ローマ帝国滅亡
ビザンティン帝国は、第一回十字軍によって十字軍諸国が設立されたことで、直接にイスラム諸国からの圧迫をうけることがなくなった。これによってアナトリア地方の支配権を大きく取り戻し、ふたたびとりあえず命脈を保つことができた。しかし、コンスタンティノープルは第四回十字軍に滅ぼされ、その後1261年に復活したもののその打撃から立ち直れずに衰退し、1453年滅亡に至る。

(7)イスラム諸国は西洋諸国とキリスト教の蛮行に対して決定的に憎悪を抱くことになった。それは今日まで続いている。

(8)近現代への影響
 十字軍はイスラムから見れば侵略軍である。2003年のイラク戦争において、アメリカのブッシュ大統領は、自軍を十字軍と表現したが、イスラム圏からの反発によって、すぐに撤回した。また、一部のイスラム教徒は、21世紀の今日でも、イスラエルへの支援やイラク戦争など、中東に対する欧米のあらゆる関与を「十字軍」と呼んで糾弾している。
 これは東方正教会から見ても同様であり、直接攻撃と略奪を受けた東ローマ帝国を始めとする東方正教会諸国の対西欧感情は、決定的に悪化した。これ以降何度か東西キリスト教会再統一の試みがあったものの、正教徒の人々の強い反対と、交渉の間にも時代を経て教義の差が開いたことから実現することなく現代にまで至っている。更には十字軍と並行して西ヨーロッパでユダヤ人迫害が起こったため、ユダヤ人からも十字軍は忌避されている。
 西欧においては、十字軍は西欧がはじめて団結して共通の神聖な目標に取り組んだ「聖戦」であり、その輝かしいイメージの影響力は後日まで使われた。後の北方や東方の異民族・異教徒に対する戦争ほか、植民地戦争などキリスト教圏を拡大する戦いは十字軍になぞらえられた。また異国への遠征や大きな戦争の際には、それが苦難に満ちていても、意義ある戦いとして「十字軍」になぞらえられた。

(9)十字軍の歴史に目を閉ざした結果・・・
 ドイツ大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーの有名な演説「荒野の四十年」に次のくだりがある。「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」  
 十字軍が、現代にいたる歴史におよぼした重大なことの一つは、<白人による異教徒の有色人種殲滅を聖書の聖戦として位置付ける構図>をつくってしまったことだと指摘する向きがある。15世紀大航海時代にはコルテスはアステカ文明を、ピサロインカ帝国を破壊し尽くし、異教徒である中南米先住民殺戮を行なった。17世紀、ヨーロッパから来た米大陸の新住民たちは、先住民を殺戮し、その結果、かつて1500万人いたネイティブ・アメリカンが現在ではわずか30万人である。
 2000年、当時の教皇ヨハネパウロ2世が十字軍について謝罪した。プロテスタントは公式にこうした謝罪や反省をしたとは聞かない。十字軍がローマ教皇の名で行われたからであろう。しかし、クルセード(十字軍)ということばがあるプロテスタントの人々によって、団体名や運動名として用いられていることは、ブッシュ大統領と同様、不見識のそしりを免れまい。
 3年前フラー神学校で学んだ蔡師と交流の機会があった。蔡師が、「かつて宣教師に必要なものはcrusade spiritだと言われたが、今日ではcrucified spiritこそ宣教師に必要なものだと教えられた。」とおっしゃっていたのを聞いて、福音派の宣教学者も十字軍についての認識がようやく改められて来たのだと知った。