苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

公同の礼拝。長期戦にそなえて 

 新型コロナ感染に、アビガンという症状を軽減する薬が注目を浴びていますが、まだ実験段階です。ほんとうの意味で感染拡大が収まるためには、集団免疫ができなければいけないそうです。そのためには相当数の人々が感染する必要があるそうです。専門家によって、それは全人口の8割が必要だとも、いや6割程度でもというので、よくわかりません。感染するには、ほんとうにその病気になって回復するか、ワクチンによって感染するかです。では、ワクチン開発まで、どのくらいの時間が必要かというと、昨日朝のニュースで新型コロナ肺炎のワクチン開発され使われるようになるまでには、順調にいって2年ないし3年かかるでしょうと言われていました。長期戦です。

 教会が主日の公同礼拝をやめることはありえないことです。しかし、その公同礼拝の様態を変えることはあります。ノアやアブラハムの時代は、屋外に自然石で祭壇を築いて、そこで礼拝をしました。エジプト脱出のとき、神は契約を与えて、神が民のうちに住まわれることの表現として幕屋を与え、その会見の天幕で祭司が礼拝をささげました。その後、ソロモンが建立した神殿で礼拝がささげられました。しかし、バビロンの攻撃によって神殿は焼き払われて、人々は補囚の地で神殿礼拝ができなくなり、生贄をともなわず、みことばを中心とし、賛美を霊のいけにえとしてささげる会堂礼拝をするようになりました。その後、神殿は再建されますが、各地で会堂礼拝がささげられます。イエス様が来られた時代はそういう時代でした。 イエス様が天の御座に着き、聖霊を注がれて新約の教会が誕生しますが、当初、彼らは週の七日目の安息日にはエルサレム神殿に集い、一日目には家の教会で礼拝をささげ聖餐をしたようです。しかし、やがてキリストを信じる人々は神殿から追放されて、家の教会での礼拝となり、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令までは、その状態。そしてミラノ勅令以降、専用の礼拝堂が用意されました。

 こうして見てきてわかることは、第一に、神の民のアイデンティティはともに礼拝をささげる民であるということです。礼拝をささげなくなったら、それは神の民ではありません。ですから、どういう状況であれ、ともに礼拝をささげることだけは大切にしていきたいと考えています。

 しかし、第二に、神の民の礼拝の様態は時代状況によって変わってきた。変わりつつ生き残ってきたということです。リバイバルするために、まず、今はサバイバルしなければならない、と近所の友人太郎牧師は言っていました。なるほどです。

 この二つの大事な原則を、現在の新型コロナ肺炎の感染拡大という状況のなかで、大事にしたいと思います。

 今日、特に感染が拡大している東京など都市部においては、多くの人が一堂に会する集会をもつことがむずかしくなっています。「三密」を避けよといわれます。対応策の一つは、公同礼拝を短縮し、回数を増やすことで密集を防ぐことです。

 しかし、そういうかたちも無理な状況に置かれている兄弟姉妹のためには、インターネットを用いてyoutubeやLINEでの礼拝のライブ配信をしている教会も多いようです。ただし、保存されたものを自分の都合の良いときに、つまみ食い的に聞くのでは、公同礼拝に参加したことにはならないだろうと思います。礼拝は講演会でも音楽会でもありませんから。一人一人が祭司としての自覚をもって、パソコンの画面の前であっても、招詞から祝祷まで参加してこそ、空間を超えて公同礼拝に出席したことに準じたことになるというふうに考えます。その観点から厳格に言えばですが、youtubeliveで主日礼拝をする場合、終わったら、消してしまうほうがよいのかもしれません。

 私はネットに詳しくないので、友人たちに教わりながら、実験しているところです。私の仕える群れはインターネット環境のない高齢者が多いので、別の方法、事後にCDをくばるか、環境を整えるのを手伝うかしないといけません。とにかく、100%完全にできないから、全部だめという考えでなく、できることをいろいろ工夫しながらやっていこうというのがよいと思っています。 

 もうひとつ思わされているのは、この危機はチャンスでもあるのだろうということです。今youtubeを開き、「教会」「礼拝」というキーワードで検索すると、世界中のたくさんの教会の礼拝風景、あるいは、礼拝メッセージが公開されています。教会堂の壁の中に閉じ込められていたキリストの福音が、今、解放されて外に飛び出しているというのを見ると、神様は、この事態をもちいて、ご自身の宣教のわざを進めて行こうと計画していらっしゃるのではないか、ということです。そういう意味では、主日礼拝風景を消してしまうことはもったいないか、とも思います。また、キリスト者であってもどうしても環境的に、職業的に、その他の理由で主の日の定刻にむりという兄弟姉妹もいるわけですし。

 もう一つは、コロナ問題がなくても、高齢の兄弟姉妹たちはぽつりぽつりと車が運転できなくなったとか、体がきかなくなったとかいうことで、公同礼拝に出ることがむずかしくなってきつつありました。何十年も礼拝第一にして生きてこられた兄弟姉妹が、最後までその歩みができないのは残念至極です。どうしたらいいのだろうと、考えながらも、踏み出せないでいたことに、今回のことで踏み出すことができそうです。

 いろいろ考えさせられますが、いずれにせよ、二千年間、いや四千年間、いやアダムの時代から、神の民がささげてきた公同の礼拝を、どういう様態であったとしても、続けていくことが肝心であるということです。また、メモしようと思います。単なるメモです。