苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ルールは何のために?

マルコ3:1−6
2016年7月10日 苫小牧主日

3:1 イエスはまた会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。
3:2 彼らは、イエス安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
3:3 イエスは手のなえたその人に「立って真ん中に出なさい」と言われた。
3:4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。
3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。
3:6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。

1 安息日の守り方をめぐって

 主イエスと弟子たちは、安息日礼拝のレギュラーメンバーでした。イエス様の時代、人々は安息日をとても大事にしていたのですが、その大事にする仕方がおかしくなっていることに気づきました。特に民にとって指導的な立場にあったパリサイ派の人々の安息日観がおかしかったので、イエス様は、安息日その安息日の守り方をめぐって、パリサイ派の人々を戒めたのです。
 福音書によると、当時のイスラエルの指導的立場の党派には、パリサイ派サドカイ派、ヘロデ党という人々がいました 。
 サドカイ派は、ローマ帝国やヘロデ政権と妥協しながら、神殿経営をうまくやっていこうという祭司階級のエリートでした。神殿経営は大繁盛していて、祭りともなると地中海世界のあちこちから大量の人々が神殿礼拝に押し寄せていました。サドカイ派のものの考え方はギリシャの合理主義の影響を受けて、天使の存在を否定し、終わりの日の復活も否定していました。旧約聖書の中ではトーラーつまりモーセ五書は重んじるけれども、他の書は重んじない人々でした。
 ヘロデ党というものの実態はよくわからないのですが、ヘロデ王権の政治的支持者たちということでしょう。ヘロデ家というのはイスラエル人でなく、エサウの子孫であるイドマヤ人でした。イスラエル民族にとって仲の悪い親戚のような民族なので、ローマ帝国は属州を統治するにあたって、わざわざイスラエルにとって仲の悪い親戚であるイドマヤ人の王を立てたのです。イスラエル内部で対立が起こってギクシャクしていれば、一致して支配者ローマに刃を向かってこないだろうという政策です 。ヘロデ党は当然親ローマ主義で享楽的な人々でした。
 親ローマ主義のサドカイ派、ヘロデ党に対して、パリサイ派イスラエル国粋主義・反ローマ主義の人々でした。彼らは、手工業に携わる庶民階級から出た人々であり、民衆に近いところにいて、民衆の支持を集めていました。パリサイ派旧約聖書に固く立って、天使の存在、死者の復活といったことがあると信じていました。そういう意味でイエス様の活動なさったフィールドと重なっていたので、パリサイ派の人々はイエス様としばしば衝突しました。当然、ヘロデ党・サドカイ派パリサイ派は鋭く対立していました。合理主義者と超自然主義者、親ローマ主義者とイスラエル国粋主義者ですから、犬猿の仲です。


2.片手のなえた人

 さて、主イエスと弟子たちが会堂の礼拝に出席し、主イエスは会堂で旧約聖書を解き明かしました。と、会堂の隅に一人の人が座っていることに主イエスが気づきました。主イエスは、神様ですから、彼を見て、彼が片手が萎えてしまっている人であること、彼がどういう事情であり、どういう人生をたどってきたのかがわかりました。彼は隅の人目になるべくつかぬ場所を自分の場所と決めていたようです。だからこの男に向かってイエスは「立って、真ん中に出なさい。」とおっしゃいました。
 片手がなえているというのはどういう障害でしょうか。両手両足なえているというのとはちがう、その障害の意味とは。両手両足がなえているというならば、何もすることができない。なんでも人にやってもらうしかない。そういう生活をせざるを得ません。誰が見ても障害者です。しかし、片手がなえているということは、一見すると、なんともないように見えます。腕が隠れてしまう着物をまとえば、健常者となんらかわりません。だから、本人もそれを人に悟られまいとするような、そういう障害でしょう。けれども、実際には人と同じように仕事ができるかといえば、そうではありません。スポーツをしようというとどうにもなりません。日本でいえば、小さな時から、友達に「いっしょに鉄棒しよう」などといわれるまえに、隅のほうにうずくまっている。そういう消極的な生き方が習い性になってしまった、そういう人生をたどってきたのでしょうね。
 「立って、真ん中に出なさい」。主イエスのこのことばは、この人目につかない会堂の片隅にいたこの男の耳にはなんと響いたでしょうか。恥ずかしいと思ったでしょう。驚いたでしょう。しかし、彼は主イエスのことばに力を感じて、気が付くともう彼は立ち上がって、衆人環視のなかを歩いておずおずの主イエスの前に出てきます。自分でも意外なこと、いつもならできないようなことでした。しかし、「立って、真ん中にでなさい」とおっしゃる主イエスのことばには逆らい難い力がありました。主イエスのおことばは、無から万物を造りだした力あることばなのです。
 片手がなえ、いつも人目につかない隅の方に自分の居場所を求める人。必ずしも、からだに障害がなくても、この男のような人生をたどっている人がいます。そういう人は、なにかあると「どうせ自分には無理・・・」とつぶやくことが習慣となってしまっているのです。消極的で否定的な人生を生きているのです。
 しかし、そんな人に向かって「立って、真ん中にでなさい」と主イエスはお命じになります。そして主の命令には、人を動かす力です。どんな消極的な人生をたどってきたとしても、主イエスの命令をたましいの底に受け止めるならば、その人生は変えられます。
 信州安曇野の1人の女性牧師とその夫君から興味深い話を聞いたことがあります。彼女は一度天国に行って帰ってきたという(夢を見たという)のです。ある朝、夫君がいつものように出勤して、彼女は庭仕事をしていると、急にひどく頭痛がしたので家にもどったのですが玄関の廊下で意識を失い倒れてしまいました。脳出血でした。夕方五時をまわって、ご主人がもどってこられたのですが、家に明かりが灯っていません。ご主人は不思議に思いながら、暗い玄関に入って奥さんを見つけて、脳の病院に救急搬送しました。医者には、「状況から見て、倒れてから相当時間がたっているので生命が助かる見込みは少なく、幸い生命をとりとめたとしても、相当の重い障害が残ることを覚悟してください。」と言われてしまいました。ご主人はとにかく一生懸命に主に祈りました。
 その間、奥さんは、天国に入っていた夢を見ていたそうです。天国には虹がかかっていて、川が流れていたそうです。彼女のおっしゃるところでは、「都会で華々しく伝道をしていらっしゃる先生方と自分を引き比べて、自分は劣等感を抱いていました。天国に入れてもらえたときには、自分はきっとその隅のほうで小さくなっていなければならないのだろうなあ。」と思っていたそうです。ところが、天国に行ってみると、驚いたことに彼女は主イエスの足元に置かれていたのです。彼女は嬉しくて、「ばんざい。ばんざい。」と子どものようにはねました。そして周囲を見てみると一抱えもあるような、さまざまの宝石があり、自分自身もそういう宝石の一つであることに気づいたというのです。「片隅にいることはない。わたしの目の前に出ておいで。わたしの目にあなたは高価で尊い。」と、主が自分にもおっしゃっていることが彼女にわかりました。
 数日の意識不明の後、彼女は目がさめ、奇跡的な回復をとげて障害も残らずに退院し、天国の希望を語る使命が自分たち夫婦に与えられたことを確信して、あちらこちらでこの不思議な経験を証言してまわっていらっしゃるのです。
 「隅にいることはない。立って、わたしの前に出ていらっしゃい。君が、そこにいることばすばらしいことなんだから。」こうおっしゃる主イエスの御声を聞くならば、人はいきいきと生きることができます。


3 安息日にすべきこと

 さて、パリサイ人たちは、安息日なので当然、会堂に集っていました。しかし、彼らは神を賛美し、みことばに耳を傾けて礼拝することも忘れて、ひたすらイエスのあらさがしをしていたのです。「じっと見ていた」とあるでしょう。もちろん、主イエスが「安息日にしてはならない」こととして彼らが作り出した1521個の「仕事」と見なされる禁止条項に反することをやるならば、すぐに摘発してやろうと、監視していたのです。
ところが、主イエスは、片手のなえた人を会堂の真ん中に呼び出し、みなの目の前で彼の手をいやされました。そして、イエスはぐるりと見回して質問します。
安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか。それとも殺すことなのか。」
しかし、パリサイ人たちはきょとんとしています。なぜでしょう?恐らく彼らにはわからなかったのです。そんなこと考えたこともなかったから。パリサイ人たちにとって、安息日に肝心なことは、ただひたすらに「仕事」と見なされることを「しないこと」だったから、今まで「安息日にしてよいこと」については考えたこともなかったのです。
 パリサイ人とイエスの着眼点のちがいはなんでしょう?それは、パリサイ人たちは「してはならないこと」ばかりを追求していたのに対し、主イエスは「すべきことはなにか?」とおっしゃったことです。安息日の本来の目的に立ち返るということが大事です。安息日、それは先週学んだとおり、霊とまことをもって礼拝をささげることによって神を愛し、隣人を自分自身のように愛するという目的のために設けられた日です。その目的を果たすためにこそ、通常の仕事も娯楽もやめて過ごすのです。
 とするならば、主イエスがこの暗い人生を世間の片隅にうずくまるように過ごしてきた人の片手だけでなく、その人生そのものをいやされたということは、安息日にすることとしてもっともふさわしいことでした。

<適用> 安息日にかぎらず、私たちが生活している社会にはいろんな習慣、いろんなルールがあります。ルールや習慣は、もともとその社会が円滑に動くために作られたものです。たとえば交通ルールがなければ、車社会は機能しないでしょうからルールは大事なものです。
ところが、ルールがいつのまにか人を縛って、お互い不自由をしているということがあります。信州で開拓伝道をして驚いたのは、葬式の習慣でした。葬式のあと、「はいよせ」と呼ばれる大規模な200人も300人も集めて行う会食をしなければならないという習慣があるのです。そのために何百万円もの葬式費用がかかってしまうのです。みんなたいへんだたいへんだと思いながらも、それをしないと「けちだ」と呼ばれるので、遺族は借金をしてでも「はいよせ」をするのです。かりに働き手を失った遺族であれば、彼らに借金をさせるなどということは、本当に愛に欠けたことです。
 人間社会のルールのすべては、本来的には、神を愛し、神がくださった隣人を愛するためにあるものです。信号機の「赤は止まれ」「青は進め」というルールも、横断歩道で赤信号ならば、神様がくださった自分の命と隣人の命の安全のために、通常停まるべきです。仮に車が来ていなくても、それを見ている子どもがいたなら、その子が赤信号では停まらないといけないという習慣を身につけるためにも、停まるべきです。
しかし、人命にかかわる一分一秒を争う緊急事態では、左右の安全をしっかりと確かめたうえで赤信号でも前進することが正しいのです。ですから、救急車は赤信号であっても、人の生命を救うために、注意深く赤信号を無視して行くでしょう。すべての生活ルールは、神を愛し、神のくださった隣人を愛するためにあるのです。この観点から、私たちはときどき見直すべきルールは見直すことが賢明です。それも、この世に遣わされたクリスチャンの地の塩としての役割のひとつです。


3.パリサイ人の矛盾・・・安息日に人殺しの相談

 しかし、ルール中毒(律法主義)に陥っていたパリサイ人たちには、主イエスがおっしゃる大事な真理がわかりませんでした。彼らは安息日に「病の癒し」という仕事をしたイエスが決してゆるせませんでした。安息日ルールを公然と破るとは何事だと怒り、憎しみに燃えました。自分たちの民衆に対する面子は丸つぶれにされたと怒ったのです。彼らはなにをしたでしょう。

3:6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。

 「安息日を憶えてこれを聖なる日とせよ」という律法を死ぬほど大事にしていた彼らは、なんとその聖なる日に、人殺しの相談を始めたのです。彼らが編み出した安息日にしてはならない仕事、千数百のリストの中に「人殺しの相談」は入っていなかったのでしょうか。これほどの皮肉・矛盾はありません。
しかも、彼らは日ごろはけがれた連中だと軽蔑し、話をすることも避けているヘロデ党の連中とその相談をしたというのです。ヘロデ党の連中を使えば、権力者ヘロデを動かして、イエスを逮捕させ処刑できることができると踏んだのです。


結び 本日は二点、心に留めておきましょう。第一点は、神様はあなたのことを高価な宝石のように見ていらっしゃるという事実です。自分のようなものは・・・などと片隅にうずくまっていることはありません。主の慈しみは、あなたにも注がれています。

第二点は、ルールについての考え方です。私たちの人生の究極の目的は神への愛と隣人愛の実現であり、ルールはその手段ですから、時に手段が適切でないときには柔軟な扱いをする必要があります。また、手段であるルールが目的である、神への愛と隣人への愛に相応しくないときには、改良したり廃止したりすべきです。