苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史9 ベネディクトゥスの修道院の働き

  参照:ベッテンソンpp180−194

(1)背景 
修道院は、キリスト教信仰がミラノ勅令313年で公認されたとき、信仰の世俗化に危機感を覚えた「殉教志願者」たちが、荒野で禁欲的訓練をはじめた隠修士たちに始まった。エジプトのアントニオスはその一人。パコミウスは西方で修道院制度を創設。これらの修道院は厭世的で天国志向が強かった。
 しかし、4世紀頃から教会全体への修道院の影響が強くなり『天国の門』と見なされ、そこから学ぼうとするようになった。聖なるものと俗なるものとの二元論は、キリスト者をも二種類に分ける。一般信徒は俗なる者として神に喜ばれる完全な生き方をする必要はなく、山上の説教に教えられるような完全な生き方は、この世から聖別された修道士たちのなすこととされた。修道院はこの時代の教会にとって霊的生命を維持した力となった。
 しかし、6世紀ベネディクトゥスの創設した修道院天国の門としての役割に加えて地上の役割を重視した。

(2)ベネディクトゥス(480年頃-543年)
 イタリアのモンテ・カッシーノ修道院を設け、530年頃修道会則(戒律)を定めて、共同で修道生活を行った。彼の戒律に従った修道会の1つをベネディクト会と呼ぶ。
 ベネディクトゥスはヌルシアの古代ローマ貴族の家系に生まれた。少年時代は両親とともにローマに住み、学問を習得した。これはローマの行政官として必要な教養を身につけるためであったが、福音の教えに共鳴したベネディクトゥスは神に自らの生涯を捧げることを決意し、早期に学校を退学した。
 ベネディクトゥスは隠修修道を行ったわけではなかったが、ローマ郊外の都会の喧騒を離れた場所で新たな生活を始めた。しばらく後、ベネディクトゥスはローマを完全に離れる必要を感じ、田舎で自らの労働によって生活しつつ修道生活を営むことになる。モットーはora et labora 「祈り、かつ働け」の始まり。
 修道士ロマヌスの勧めで数年間洞窟での隠修生活をした後、ベネディクトゥスはスビヤコに修道院を設立した。ほどなく彼のもとに、次々と共鳴者が集まり、スビヤコには12の修道院が増設される。12の修道院のそれぞれに、ベネディクトゥスは12人の修道士と1人の監督者を住まわせ、自身は別の修道院にわずかな弟子たちと共に住んだ。ベネディクトゥスはスビヤコ全体の修道院長として、修道士たちの信仰生活の父親役を務める。その後モンテ・カッシーノに転じ、ここで73か条から成る『聖ベネディクト戒律』を仕上げ、修道院を設立した。ベネディクトゥスは生涯を理想とする修道生活の実現のために捧げた。9世紀までには彼の編んだ規則はシャルル・マーニュによって、フランク王国内の修道院規則の標準となる。

(3)ベネディクトゥスの戒律    主な内容は ベッテンソンpp180−194
 <無所有・純潔・服従>の三原則を堅く守る。
 一日は短い睡眠と食事の時間を除き、すべて4−5時間の8回の祈りと6−7時間の労働に配分する。特徴はいわゆる極端な苦行とは違った生産労働と祈りが合理的に組み合わされていて、時と場所によって変更可能であるという柔軟性があったこと。飲食について過度の節制を強いなかったこと。院長に対する絶対服従と、この服従のもとに同志愛的な結合を図った。
 この修道院は旧来の修道院のように不合理な苦行を強いるものではなく、また労働を忌み嫌うものでもなく、先に述べたように『祈れ、働け』としていた。修道院は、祈りと瞑想の場であると同時に、農業・手工業・宗教書の筆写という生産的労働を行なう場ともなった。農業の合理的経営の工夫が修道院内でなされるようになり、ベネディクト修道院が、荒廃した農業の再建・未墾地の開墾に役立った。それゆえ、広く歓迎された。このようにして、ベネディクト修道院がヨーロッパの改宗つまりゲルマンの改宗の働きを担っていった。

(4)イギリス宣教 ベッテンソンp227
  グレゴリウス大教皇(一世)は、ベネディクト修道院を用いて英国伝道をした。グレゴリウスはアングロ人の少年奴隷たちを買い取って、修道院に入れ、後に宣教師として育ててイギリスへと送る。ラテン人の目には、金髪のアングロ人の少年たちはアンゲロス(天使)に見えたという話がある。596年、宣教師アウグスティヌス(ヒッポの教父とは別)の統率のもとに40人の修道士団をイギリスに送り込んだ。彼は司教に任職してカンタベリーに会堂を建て、ファミリア(公立学校・神学校)を設立し、ベネディクト修道院を設立した。
 ベッテンソンp228.イギリスにきて、アウグスティヌスはその慣習がローマの慣習と違うことに気づき、どうしたものか悩んで、グレゴリウス大教皇に質問状を出している。これが宣教論的に興味深い。グレゴリウスは、「物事は場所のゆえに愛されるべきでなく、良い事柄のゆえに場所が愛されるべきだからである。」として、敬虔で信心深く適切な事柄を教会から選び出してうまく調合して英国人たちがそれに慣れるようにせよと指示している。この本質をわきまえた柔軟性。
(話は変わるが、韓国教会では聖餐におけるパンには餅を使っていると、韓国人の友人に聞いたことがある。パンの無い地域に伝道して教会を建て、聖餐をするためにパンに代わるものが用いられるようになったのは、しぜんなことだろう。ぶどうが取れない地域でぶどう酒を用意することも困難である。やたらとコンテクスチュアライゼーションとか言って、おにぎりとお茶で聖餐というふうに文化に適応させるのは、いかがなものかと思うけれど。いかがなものかではすまないぞ、というむきもあろう。)

(5)「修道院の循環」
 修道士たちは無所有であったから、修道士たちの労働の実は修道院という組織に吸収される。土地についても、修道士たちの開墾、篤信者からの寄進が修道院に吸収されていく。その結果、カロリング時代には修道院は巨大な土地所有者となってしまう。たとえば後にボニファティウスの立てたフルダ修道院は、その所領はアルプスから北海にまで散在し、広さは総計45万エーカーに達した。1エーカーは40.469アールだから、45万エーカーはおよそ18万2250ヘクタール。
 中世を通じて修道院古代文明を保持して継承させたこと、教会の霊的刷新に寄与したことは事実である。しかし、同時に、大地主となり一般民衆の住まいとはかけはなれた建物や豪華な礼拝堂と金銀の祭儀の調度品を有するにいたって、修道院は特権的なものとなっていった。禁欲と勤勉が富と余裕を生み出し、最初意図したのと正反対の放恣・怠惰の極みに至り、するとまた新しい禁欲と勤勉の運動が起こる。「修道院の循環法則monastic cycle」とはこのことである。
 一つの例をクリューニ修道院に見よう。10世紀になると修道院はノルマン人、ハンガリー人に略奪され、それを免れた修道院修道院長や高位聖職者の野心の道具にされていた。大修道院も堕落してしまったのである。910年アキテーヌの領主ギョームがベネディクトゥス修道会に一つの修道院を寄進した。彼はベネディクトゥスの会則に忠実な修道士ベルノを修道院長として迎え、ベルノは926年までこの職を務めた。10世紀・11世紀に彼とその後継者は修道院改革を実行していく。クリューニーの修道士たちはほとんどすべての時間を礼拝のために用いたので、肉体的労働はおろそかにされるようになった点は、ベネディクトゥスの会則から外れた点であるが。この修道院は、教皇の直接管轄と保護下に置かれたので、世俗領主たちからの影響をまぬかれることができた。
 教会の最高聖職者たちが堕落していた暗黒の10世紀にあって、クリューニーがなしている改革は奇跡的なものであって、多くの人々に支持されることになる。世俗権力から独立していた彼らの運動は、まず第一に聖職売買の廃止をめざした。第二に廃止されるべき害悪は聖職者の結婚であるとされた。
 しかし、清貧の理想は、先に述べた修道院の循環によって崩れていく。修道士たちは無所有で勤勉に務め、多くの支持者たちが修道院に寄進をした。その結果、修道院という組織は広大な土地と莫大な財産をもつようになっていく。こうなると、ベネディクトゥスの会則を維持することがむずかしくなっていく。クリューニーの改革運動が失敗に終わったのは、その富のゆえである。砂糖にアリが群がるように、富があるところには、世俗の権力者たちの策謀が働くようになってしまうのである。
 11世紀末になると、生ぬるくなってしまったクリューニーの運動に対して、シトー会による修道院改革運動がはじまる。この運動の偉大な指導者がクレルヴォーのベルナルドゥスである。彼は名説教者として知られ、しばしば政治的・教会的抗争の調停にまで招かれている。ベルナルドゥスは教皇以上に力を持つようになり、特に彼の弟子が教皇になるとそうであった。ベルナルドゥス第二回十字軍を提唱している。
 教会や修道院が富を抱えることの危険ということを私たちはわきまえるべきである。
(教会にはきらびやかな調度品など要らない。宣教の活動と愛の奉仕のために惜しみなく用いていくことならば、教会も修道院もそうした罠から逃れることができるだろう。主イエスの伝道活動と愛の奉仕とを思えば、地上に宝を積んで何になろうか。)

まとめ
 修道院は、もともと隠遁者たちが共同体を作ったのが始まりで、厭世的で天国への望みだけに生きるという性格の強いものだった。しかし6世紀、ベネディクトスによってモンテ・カシーノに設立された西方の修道院はこうした隠遁的性格に加えて、外に向かっての愛と宣教の奉仕活動や古典文献の継承という役割を果たす。福音未伝のヨーロッパへの宣教の主役は修道院だった。
 しかし、無所有・純潔・服従で勤勉という修道士の生活は、修道院という組織を富裕化させるという結果を生み、修道院は大地主となり特権的な地位を得ることになり、それはほぼ必然的に怠惰と放縦という堕落にいたる。その極みに達すると、新たな禁欲と勤勉の修道院運動が起こった。歴史家たちのいう「修道院の循環法則」である。
 修道会が考えた聖職者の堕落は、聖職売買(シモニア)と結婚であり、常にこれが改革の焦点とされていくが、聖書的観点からみるときに半分は的外れであることに気づく。すなわち、魔術師シモンが聖職を金で買おうとしたことが非難されたように聖職売買はまぎれもない罪である(使徒8:9-24)。キリスト教が公認され国教化された社会にあっては、聖職はえてして富と名誉を約束するステイタスになってしまうが、そこには常にシモニアの問題がついてまわる。
 一方、聖職の結婚は旧新約聖書を通じて禁じられていない。旧約の祭司たちは妻帯していたし、ローマ教会が初代教皇として祭り上げるペテロも結婚していた(1コリント9:5)。主イエスの教えによれば、独身は特殊な生得的な賜物であり、また神の国の奉仕のためにある場合には独身を選ぶほうがよい場合もあるが、一律に制度的に強制すべきことではない(マタイ19:11,12)。パウロのように住む場所も一定せず、たびたび投獄されることも辞さないような伝道の働きに召された場合には、正常な家庭を営むことは不可能であるから結婚はしないほうがよい。また妻への配慮のために主のみこころをないがしろにする誘惑がないわけでもない(1コリント7:33)。しかし、総合的に見て通常の牧会活動においては伝道者・牧会者が結婚していないことは実際上不利である。
 聖書は正しい範囲の中で用いられる性を罪悪視せず、かえってこれを祝福している(創世記1:28、雅歌)。性欲それ自体を罪悪視して禁欲を勧めるのは、聖書ではなくむしろグノーシス主義である(コロサイ2:20-23)。ローマ教会における聖職独身制は、むしろ異教的慣習の制度化ではなかろうか。結果、異教の僧侶たちと同じようにローマ教会の僧侶たちは、内縁の妻をかこったり、あるいは最近米国のカトリックで暴露されているように、幼児の性的虐待という罪に陥るのが関の山なのである 。