十四世紀になると「教皇のバビロン捕囚」という事件が起こる。フランス国王フィリップ四世はフランス領アヴィニョンに教皇庁を移させ、以後七十年間、教皇庁はアヴィニョンに置かれた。この事態は「教皇のバビロン捕囚」と呼ばれることもある。この七十年間の教皇はすべてフランス人だったことを見れば、教皇庁はフランス国王によって私物化されていたことが歴然としている。
教皇庁は堕落をきわめた。これに対立教皇がローマに立てられ、彼らを廃するために第三の教皇が擁立されたが、前二者が辞任をこばんだために三人の教皇が並び立つという異常事態も生じた時期もあった。当時のアヴィニョンの様子を詩人ペトラルカは「不敬虔なバビロン、地上の地獄、悪徳の巣窟、この世の下水道。そこには信仰、愛、宗教、神への恐れの片鱗もない。」と激しく非難している。ちなみにヨハネス23世は、あらゆる悪徳にふけった史上最悪の教皇として有名であり、彼はコンスタンツ会議で廃位の後、終身刑に処せられた。
しかも、かつて教会の内的改革力であった修道院も、この時代には霊的な活力を失っていた。人々は改革の叫びをあげ始めた。その代表的人物として最も急進的な改革を提唱したのが、英国オックスフォード大学のジョン・ウィクリフとボヘミヤのヤン・フスである。
ウィクリフ英訳聖書、中段からヨハネ福音書冒頭。中世英語でつづりが現代と違うけれど、なんとなく読めますね。(Wikipediaより)
(1)ジョン・ウィクリフJohn Wycliff(1324-1384)
ジョン・ウィクリフが、ヨークシャ北部にあるティーズ川の河岸に生まれたのは、およそ1324年頃、彼が死んだのは、1384年、リチャード二世の治下。彼が生まれたのは、少なくとも活版印刷術発明の百年以上前であり、彼が死んだのは、マルチン・ルターが生まれる約百年前であった。(印刷術発明が彼の時代にあったら、あるいは宗教改革はウィクリフに始まっていたかもしれない。)
ウィクリフはアウグスティヌス主義と聖書の権威への確信から教会の改革を主張した。
J.C.ライル はウィクリフの業績として次のように言う。まず聖書の十全性と至高の地位とを主張した最初の英国人のひとりであった。このことの証明は、彼の著作の中にあまりに頻繁に見てとることができる。また、ウィクリフはローマの教会の過誤を攻撃し、非難した最初の人であった。ミサと実体変化によるいけにえや、司祭職の無知と不道徳、教皇庁の横暴、キリスト以外の仲保者に頼ることの無益、懺悔に伴う危険な傾向など。ウィクリフの著作には、こうした誤った教義が、暴かれている。彼は、すでに徹底的にプロテスタント的な改革者であった。
聖書に照らしたとき、当時のローマ教会は、ウィクリフにとってもはや教会と呼べる代物ではなかった。ウィクリフが当時の教会と封建制社会に向けた大胆な非難をいくつか列挙してみよう。1332年、ロンドンで、1415年にコンスタンツ会議において排斥されたウィクリフの提案。ベッテンソンpp254−256を見よ。
1〜3、5 キリストはミサ聖餐を定めていない。ミサの教理は魔術的だ。(注:ミサでは、パンと葡萄酒そのものがキリストに変化したとして、これを拝み、また、パンと葡萄酒の姿をしたキリストを司祭が罪のためのいけにえとして神に捧げる。)
4. 大罪を犯している聖職者による洗礼式や聖職任命の儀式は無効である。
7. 信徒が司祭に罪を告白し司祭が罪を赦すという告解制度は無用。
15.大罪を犯している間はだれも領主、高位聖職者、司教ではない。
17.人民は自分たちの意のままに、罪を犯している領主たちを正す権利がある。
42.教皇と主教による免償制度を信じることはおろかだ。
20−24.修道院制度もキリスト教的ではなく異端であると非難し、修道士たちは托鉢ではなく自分の手で働いて糧を得るべきだ。
35.ローマ教会はサタンの集団であり、教皇はキリストたちにつぐ直接の代理者ではない。
要するに、ウィクリフは当時の堕落したローマ教会を全面的に否定し、社会改革も主張した。ウィクリフ主義に立つ人々をロラード派という。
またライルは言う。ウィクリフは説教をよみがえらせた最初の英国人のひとりである。彼が国中に送り出した、当時のいわゆる「貧しい説教者たち」が民衆を教えて回ったときに蒔いたみことばの種が、後に宗教改革への道を開いた。
そして、ウィクリフ最大の業績は、聖書をはじめて母語mother tongueである英語に翻訳したことである。そもそも、彼は母語という表現を用いた最初の人である。ウィクリフは聖書のみが教会にとっての最高の規範であると主張し、誰でもわかることを目指して旧新約聖書の翻訳を完成した。印刷技術もなかった当時にあっては、聖書全巻の内容を、人手で筆写していくしかなかったのだが。現在170部以上が存在している。
ひとりめのヨハネ、ウィクリフは、ここまで大胆に教皇庁を非難しながらも、教皇庁から火刑にされることなく、世を去った。しかし、後のもうひとりのヨハネ、フスはそうは行かなかった。
(2)ヤン・フス
十五世紀には、ボヘミアにヤン・フスが登場する。フスはウィクリフの主張をそのままボヘミヤの教会改革に適用しようとした。彼はボヘミアの貧しい農家に生まれ、後にプラハ大学総長となり、ベツレヘム教会の説教者として聖書に基づく教会改革を主張した。
彼はローマからの破門にも屈せず、ついにコンスタンツ会議で異端の宣告を受けて、火刑台に殉教する。一四一五年七月六日のことだった。
「七月六日、司祭の服装をつけられたフスは大聖堂に連れて行かれ、ここで祭服を引き裂かれ、聖職者のしるしである剃髪を取り消すために髪の毛がそり上げられ、代わりに、頭の上に悪魔の絵を描いた紙の冠をかぶらせられた。火刑の杭までの沿道では、彼の著作が火にくべられた。杭に縛られた後、最後にもう一度、教えを撤回する機会が与えられたが、彼はこれを拒否した。その後、彼は大きな声で、『主イエスよ。わたしはあなたのために、この残忍な死を堪え忍びます。どうかわたしの敵対者に、あなたのあわれみがありますように。』と祈り、詩篇が朗読される中で息を引き取った。 」
コンスタンツ公会議の結果を受けて、ウィクリフの遺骸は教会墓地から掘り起こされて焼かれ、灰はスウィフト川に投げ捨てられた。
後に、宗教改革者ルターはライプチヒ討論において、彼の主張はボヘミアのフスの異端に属すると非難されたとき、「私は知らずしてフスの弟子であった。」と認めた。
フスの信仰はボヘミア兄弟団、モラビア兄弟団へと流れて行く。彼らは聖書のみに基づく信仰と実践の共同体を形成した。十八世紀の英国メソジスト運動の指導者もう一人のヨハネ、ジョン・ウェスレーは彼らの霊的感化を強く受けることになる。
「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」(ヘブル十一:四)
宗教改革の先駆者たちが語る信仰とはなにか。それは聖書こそ教会の最高権威であるという確信である。
(独り言:ヨハネは英語読みではジョン、ボヘミヤではヤンという。カルヴァンもヨハネだな。ジャン・カルヴァン、ヨハンネス・カルウィーヌス。)