苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史27 中世の神学―スコラ哲学(2)カンタベリーのアンセルムス

2.カンタベリーのアンセルムス(Anselmus Cantuariensis, 1033年 -1109年4月21日)
  ――修道院神学・スコラ哲学の父  ベッテンソンpp207-211
 神の存在・キリストの受肉と贖罪
(1)年譜
1033年.アンセルムスはブルグンド王国の町アオスタで誕生。
1059年 ル・ベック修道院の副院長ランフランクスに師事
1060年 修道士として誓願
1063年 ル・ベック修道院の副院長に選出。
1078年 同修道院長に選出。
  ル・ベック時代に、『モノロギオン』(1076年)『プロスロギオン』(1077-78年)執筆。
1093年 師ランフランクスを継いでカンタベリー大司教に推挙される。
    当時は聖職叙任権闘争の時代であった。ウィリアム2世、ヘンリー1世と対立。
1107年、ウェストミンスター教会会議にて、国王が叙任権の放棄を約束し、和解。
1109年4月21日 アンセルムス死去。

(2)「修道院神学」「スコラ学の父」
神学は、それが営まれる場によって性格がつく。教父神学は、異教世界に取り囲まれ宣教の戦いをする教会を場として成立した。つぎにローマ帝国が滅び、修道院がその神学の場となって、修道院神学が生まれる。アンセルムスは、親友ベルナルドゥスとともに修道院神学の代表者である。アンセルムスは「スコラ学の父」と呼ばれはするが、彼の神学は後の大学を営みの場とするスコラ神学とは性格を異にする面がある。アンセルムス神学はスコラ神学とちがって敬虔な香りが高い。ベルナルドゥスのことば「知るために知ろうとつとめることは、信仰に関することがらの中では恥ずべき好奇心に属する。」(「雅歌について」第36説教)

(メモ:「神を愛するための神学」。 「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり・・・」ピリピ1:9  神学はそれ自体が目的ではなく、神を愛するという目的に仕える手段である。)


(3)代表的な三つの著作
 ちなみに、『モノロギオン』、『プロスロギオン』、『クール・デウス・ホモ』ともに、岩波文庫に翻訳がある。
a.知解を求める信仰 fides quaerens intellectum
 「理性と信仰」は、福音がギリシャ思想と触れたとき以来の課題である。テルトゥリアヌスは「信じられるのは、それが不合理だからである。確かといえるのは、それがありえないからであるとして、理性と信仰を対立的に捉えた。他方、ユスティノスはむしろ「キリスト教こそ最高の哲学」という立場にあって、理性と信仰の連続の可能性を見出そうとした。
 アンセルムスがスコラ学の父と呼ばれる所以は、すでに処女作『モノロギオン』に見て取れる。「独白」を意味するこの論文で、彼は神の存在と特性を理性によって捉えようとした。それは、それまでのキリスト教の権威をもって神を論ずるものとは一線を画した。アンセルムスの思索の最大の特徴は、信仰と理性的探求の関係を自覚的に確立したところにある。 彼の目的は、証明なしには信じないぞということではなく、すでに信じていることを一層深く理解することにあった。
 「理解(知解)を求める信仰」(fides quaerens intellectum)、「credo ut intelligam 我信ず、そうすれば理解せん」これは「理解せんがために信ず」と訳されることが多いが、ラテン語のutは目的より結果として英語でいえばso thatとして訳すほうがよい。I believe so that I (may) understand.
(メモ:そういえば、浪人生のとき初めて増永俊雄先生にお目にかかったとき、「英語にTo see is to believe.といいますが、信仰の世界ではTo believe is to see.なんです。」と教えてくださったなあ。増永先生の念頭には、fides quaerens intellectumがあったのだろうか。)
 「聖書の権威に全く頼ることなく」証明することを試みるのだが、それは「理性・根拠ratioを通して信仰に達するためではなく」、「信じている事柄を理解すること(intellectus)に喜びを見いだすため」である(Cur Deus Homo, 1,47)。すなわち、彼は、権威に拠って信じるのみで理性的探求を軽んじること、反対に、理性的探求のみ重んじて信仰を軽んじることのいずれも戒めて、まず信からスタートして、信じる者が自分の信の根拠を、聖書の権威によらずに探求することを提唱した。権威至上主義も理性至上主義も戒めたのである。
 信仰と理性のこうした位置づけは、以降のスコラ哲学に大きな影響を与えたゆえ、彼はスコラ学の父と呼ばれる。

b.神の存在の本体論的証明
『プロスロギオンProslogionベッテンソンpp207-208
書名プロスロギオンは神との「対話」を意味する。実際に読んでみると、単なる抽象論をふりまわした神学書ではなく、全篇これ祈りである。敬虔と知性がみごとに一体化した作品であり、まさに知解を求める信仰の書である。それゆえアンセルムスやその親友のベルナルドゥスの神学は、スコラ神学(学校の神学)とは区別して「修道院神学」と呼ぶことがある。「秘儀との有機的な結びつきを保ち、絶え間なく祈りながら、情愛深く、より深く秘儀を知覚しようとつとめる人間の全能力の結集なのである。 」ベルナルドゥスは指摘した、識るために識ろうとつとめることは、信仰に関することがらのなかでは『恥ずべき好奇心』に属すると(雅歌説教36)。
構想当初「知解を求める信仰fides quaerens intellectum」と題されていたが、これは彼の神学者、スコラ学者としての姿勢を特徴づけるものとしてしばしば言及される。この立場は通常、理解できることや論証できることのみを信じる立場ではなく、また、信じることのみで足りるとする立場でもなく、信じているが故により深い理解を求める姿勢、あるいはより深く理解するために信じる姿勢であると解される。
神の存在証明は、『プロスロギオン』の特に第2章を中心に展開されたもので、おおよそ以下のような形をとる。

1.神はそれ以上偉大なものがないような何者かである。
2.ところで、存在には二種類ある。すなわち、観念の中に存在するが実在しないものと、観念の中に存在し、かつ実在するものである。
3.観念の中にのみ存在して実在しないものよりは、観念の中に存在しかつ実在するもののほうが偉大である。
4.神はそれ以上偉大なものがないものである。
5.したがって、神は人間の観念の内にあるだけではなく、実際に存在する。

「それゆえ、疑いもなく、それより偉大なものが考えられ得ない何かは理解のうちにもまた実在としても存在する」(プロスロギオン2章)
「主、神よ。あなたはこのようにまことの存在し、存在しないことは考えられ得ません。」(プロスロギオン3章)
 アンセルムスの神の存在証明は、神とはいかなる存在であるかという神の本性そのものの理解から出発するので、本体論的証明と呼ばれる 。
 では、この論証は単なる知解による証明であろうか。そうではない。「実にわれわれはあなたが、それより大いなるものが考ええられない存在であられることを信じています。」という。つまり、この論証の出発点である「神はそれ以上偉大なものが考え得られない何者か」は、アンセルムスの信仰告白であり、神の自己啓示なのである。この自己啓示を信仰によって受け入れて、そこから神の啓示内容を理解していこうとするのである。「理解を求める信仰」というのはこのことである。

c.贖罪論
Cur deus homo (Bettenson pp208-211) なにゆえにキリストの贖罪が必要なのか、それはいかにして成就され、現在のわれわれといかにかかわりあうのか。これが贖罪論の課題。アンセルムス以前、十分な意味でこれを論じた神学はなかった。
 古代ギリシャ教父たちは賠償説を唱えた。すなわち、キリストは神が人間を救出するために悪魔に支払われた身代金であるという説である。テルトゥリアヌス以来の西方ラテン神学の伝統には、キリストのわざを罪人に対する刑罰に対する身代わりであるとする代償説があったが、神学論の展開はまだなかった。以下、抜粋する。
第一巻
 「罪を犯すとは神に帰すべきものを帰さないことである。」神に帰すべきものとは神に栄誉を帰すことであるから、神に栄誉を帰さないことは神を辱めることである。
 「罪を正す唯一の可能な方法は罪を罰することである。」罰しないで許すことは、神の正義というご性格に反する。
第二巻
 「罪ある人間はだれも完全な賠償をすることはできない」
 「神以外にこの賠償をなしうるものはいない。しかも、人間以外のものが、これをなすべきではない。・・・神であり人である方がこれをなさねばならない。」
 「彼は、神以下のすべてよりも偉大なものを、義務に束縛されてではなく、自分から進んで与えることのできる何ものかを持っていなくてはならない。」それであってこそ、大いなる功績となるから。
 「このような偉大なささげ者を自由になしうる方(キリスト)には、明らかな報いが与えられなくてはならない。・・・しかしすべてに満ち足りておられる神なるキリストに報いは与えられない。」そして・・・キリストは報いの請求権を人間に譲渡されることを選ばれた。」
 こうして神の正義を満たしつつ、神の慈愛が実現した。アンセルムスの贖罪論は、宗教改革者たちの代償的贖罪論の原型となる。

(このノートの資料は、J.ゴンサレス、ベッテンソン、長沢寿、清水哲郎Wikipedia