苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史23  托鉢修道会

1.インノケンティウス3世とフランチェスコ  ベッテンソンp195−

 ベネディクト会、シトー会といった従来の修道会は、農村を基盤とし俗世を離れて「祈りかつ働け」をモットーとするものだったが、これでは急増した都市には向いていなかった。聖職者たちは堕落して民衆の支持を得ることができなくなっており、霊的空白地帯となった都市には異端的自由説教者が増えて混乱していた。さらに、グレゴリウス7世の改革によって、腐敗した聖職者のなす礼典を無効と宣言したために、カトリック教会による礼典の客観性を自ら手放したという状況にあった。それはカトリック教会自身がいつのまにかドナティストの異端の立場を取ったことを意味する。
 インノケンティウスの課題は、いかにしてカトリック教会が負ったこの深手をいやすかにあった。カタリ派やワルドー派が、教会の秩序の外において提起した問題を解決することである。彼らが生命を失うことをもいとわずに求めたものを、教会の秩序の内側において獲得することである。
 そこで、必要とされていたのは、教皇庁の権威のもとにありつつ、俗世を捨てながら俗世のなかで生きる使徒的生活者の組織だった。労働の代わりに貧民の世話と説教を、財産のかわりに乞食を、俗世離脱のかわりに都市内の一所にとどまらない生活をする修道会だった。それがフランチェスコの始めた修道会であった。そこで、インノケンティウスはこれを公認した。堀米庸三は「正統と異端」を次のように書き出している。
 「1210年(実は1209年)、早春のある日のことである。中世ローマ法王インノセント三世は、ラテラノ宮の奥深い一室で、みなれぬ一人の訪問者と話し合っていた。この訪問者は、やせぎすの中背、やや中高の細面、平たく低い前額の下には一重の黒目がのぞき、鼻と唇はうすく、耳は小さくとがり、頭髪もひげもうすい。変哲がないというより、むしろ貧相なこの訪問者を特徴付けていたのは、しかし、そのやわらかな物腰と、歌うようなこころよい声音であった。が、その風体は少なからず変わっている。長い灰色の隠修士風のマンとは、腰のあたりで荒縄で縛られており、裾から飛び出している足は裸足である。・・・この会見こそは、起伏にとぼしくない西洋の歴史にあっても数少ない、世界史的な出会いの一つだった。」
 インノケンティウスは、フランチェスコの「小さな兄弟たちの修道会」をカトリック教会の秩序のうちに取り込むことによって、異端運動、おもにカタリ派に対応したのである。腐敗した聖職者からはなれた民衆の心を、フランチェスコ会はもういちど教会につれもどす役割を果たした。
 
2.アッシジのフランチェスコ(伊:Francesco d'Assisi、1181年或は1182年 - 1226年10月3日)。
a.<生涯>フランチェスコは、西欧中世の盛時、12世紀後半、ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ(Pietro di Bernardone)を父に、フランス人を母として、イタリアはローマの北に位置するウンブリア地方アッシジの町に生まれた。織物商人の父親が仕事上フランス語が堪能だった。
 フランチェスコは裕福な家庭に生まれ放蕩生活を送っていたが、やがて騎士となって戦に出かけたが捕虜になってしまう。憔悴しきって帰還したフランチェスコは病床で23歳のとき信仰に目覚めた。彼はいっさいを放棄して、隠修士となり、アッシジ近郊の聖ダミアノ聖堂の修復を行った。
 そして、1208年に「清貧」「純潔」「従順」という三つの戒律を定めて活動を始めた。彼は弟子たちとともに各地を放浪し、説教を続けた。1209年にはローマ教皇インノケンティウス3世に謁見し、教皇は修道会設立の認可を与えた。当時、カタリ派などキリスト教内部の腐敗に対する批判として、多くの信仰復活の運動がローマによって弾圧された中で、フランシスコ会は例外的に教皇から承認されて発展した。ローマ教会は清貧を旨とするフランシスコ会を取り込むことによって、腐敗した教会に対する民衆の批判をかわすことができた。また、これに倣ってその他の修道会が次々に誕生し、それらの中から教皇が選ばれるようになっていく起点となった。

b.<フランチェスコの思想>
 フランチェスコの思想の特徴の一つは、被造物と一体性ということである。それを象徴するのが「太陽の歌」 という賛美歌である。この歌は、太陽・月・風・水・火・空気・大地を「兄弟姉妹」として主への賛美に参加させ、はては死までも「姉妹なる死」として迎えたのである。こうしたことから、彼は西洋人には珍しいほど自然と一体化した聖人として国や教派を超えて世界中の人から愛されている。小鳥へ向かって説教したという伝説も大変に有名であり、教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「自然環境の保護の聖人」とした。

           太陽の歌

神よ、造られたすべてのものによって、わたしはあなたを賛美します。
わたしたちの兄弟、太陽によってあなたを賛美します。
太陽は光りをもってわたしたちを照らし、その輝きはあなたの姿を現します。
わたしたちの姉妹、月と星によってあなたを賛美します。
月と星はあなたのけだかさを受けています。
わたしたちの兄弟、風によってあなたを賛美します。
風はいのちのあるものを支えます。
わたしたちの姉妹、水によってあなたを賛美します。
水はわたしたちを清め、力づけます。
わたしたちの兄弟、火によってあなたを賛美します。
火はわたしたちを暖め、よろこばせます。

わたしたちの姉妹、母なる大地によって賛美します。
大地は草や木を育て、みのらせます。
神よ、あなたの愛のためにゆるし合い、
病と苦しみを耐え忍ぶ者によって、わたしはあなたを賛美します。
終わりまで安らかに耐え抜いく者は、あなたから永遠の冠を受けます。

わたしたちの姉妹、体の死によって、あなたを賛美します。
この世に生を受けたものは、この姉妹から逃れることはできません。
大罪のうちに死ぬ人は不幸な者です。
神よ、あなたの尊いみ旨を果たして死ぬ人は幸いな者です。
第二の死は、かれを損なうことはありません。
神よ、造られたすべてのものによって、
わたしは深くへりくだってあなたを賛美し、感謝します。


 修道生活に関する思想はフランシスコ会則によく現れている。当時のベネディクト会則とはまったく違う独自の会則に従い従順・清貧・貞潔に生きた。特に清貧が強調される。⇒ベッテンソンpp195‐199

 「平和の祈り」は有名だが、実は、フランチェスコ自身の筆という証拠は無い。この祈りは1917年、フランス・ノルマンディー地方の宗教雑誌にフランス語で初めて登場。だが、「平和の祈り」は聖フランチェスコの精神をよく伝える。 富や権力と癒着してしまったローマ教会に、霊的いのちをなんとか維持させたのは、修道会だった。

          『平和の祈り

神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください
憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように
いさかいのあるところに、許しを
争いのあるところに、平和を
分裂のあるところに、一致を
迷いのあるところに、信仰を
誤りのあるところに、真理を
絶望のあるところに、希望を
悲しみのあるところに、よろこびを
闇のあるところに、光を
もたらすことができますように、
助け、導いてください。

神よ、わたしに
なぐさめられることよりも、なぐさめることが
理解されることよりも、理解することが
愛されることよりも、愛することができますように

なぜなら、与えることによって、与えられ
自分を捨てて初めて自分を見出し
許すことによって、許され
死ぬことによって
永遠の生命を与えられるからです。


3.ドミニコ会

 1206年に聖ドミニコドミニクス・デ・グスマン)は1216年にローマ教皇ホノリウス3世によって認可されて修道会を設立した。正式名称を説教者修道会という。略号は OFP である。清貧を重んじ、初期は托鉢によってのみ生活したため「乞食修道会」「托鉢修道会」とも呼ばれる。 アルビジョア十字軍における異端審問で知られる。黒と白の修道服で表される。
 フランシスコ会がキリスト的な生活実践を重んじたことに特徴があるのに対して、ドミニコ会が学問的営みをも重視するという点に特徴がある。ドミニコ会からトマス・アクィナスが生まれたのは自然な結果であった。
 J.ゴンサレスのほかには、ドミニコ会HPウィキペディアくらいしか資料が手元にない。ドミニコが胎に宿ったとき、たいまつをくわえた白黒ぶちの(ダルメシアン?)の子犬が宿っている夢を見たとか、ちょっと面白いドミニコの誕生譚が紹介されている。異端者に噛み付いて、白黒つける恐ろしい異端審問に活躍することになる学究系のドミニコ会を象徴する誕生話である。ドミニコ会の修道服は白黒である。聖ドミニコ肖像画を見ても白と黒のペンギンみたいな服である。ちなみにフランチェスコ会の修道服は、黒ないし黒が色あせたこげ茶色。

 ドミニコについては、メモはこれだけ。筆者は今のところ、あまり好みも関心もないので。