苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史8 グレゴリウス大教皇

(1)人物
 中世ローマ教会の幕をあけたのは西ローマのグレゴリウス大教皇(一世)(在位590−604)である。彼はローマの由緒ある元老院議員の貴族の出身で、25歳の若さでローマの司政長官に任ぜられた。しかし、数年たつとこの職を辞し、ローマやシシリーの全財産を投げうって七つの修道院を建て、自らローマに建てた聖アンドレアス修道院の修道士となる(573年)。七つの修道院は、ベネディクトゥスの戒律に従うものだった。
 590年、選ばれてグレゴリウスは教皇となる。大グレゴリウスの在位は十四年間だが、その間に以後千年間の中世ローマ教会の基礎を築いてしまう。グレゴリウスは歴代の教皇のなかで最初に意識的に東ローマの影響からの離脱、教皇権の確立に務めた人物である。監督制の教会は、有能な監督を得るときにどれほど多くの仕事を効率的になしうるかということのサンプルである。

(2)歴史的状況とグレゴリウスの業績
 ユスティニアヌス大帝の皇帝教皇主義に立つ教会政治は教会の自由を脅かし、東方教会での教義論争はコンスタンティノープル大司教とローマ教会との間に不必要な摩擦を引き起こした。他方ランゴバルドの脅威は強まってくるが、皇帝からの支援は期待できないという状況だった。
 グレゴリウスは表面上はコンスタンティノープルと有効関係を保ちつつ、東ローマ勢力とランゴバルドを対抗させ、自らはランゴバルドと妥協して教会の基礎をかためるという政治的な離れ業をやってのけた。皇帝の要求に対しては敢然とレオ1世の宣言に基づいて拒否した。
 ゲルマンの改宗。アリウス派または異教徒のゲルマン諸部族をローマ教会の傘下に取り込んだ。西ゴート族アングロサクソンを改宗させたのである。これに用いられたのが、ベネディクトゥス派の修道院である。
 また、彼は典礼の整備をした。グレゴリオ聖歌はレオ1世の成果のひとつである。もう一つ典礼で注目すべきことはミサを犠牲とみなす考えである。生きている者は煉獄で苦しんでいる者のためにミサをささげるのである。16世紀プロテスタントの改革まで、これは正統的な教理をみなされるようになる。
 さらに、<司祭−主教−大主教教皇>というピラミッド型のヒエラルキーからなる職制を確立した。

(3)半ペラギウス主義と煉獄と免罪符
 中世の西方教会の神学では、関心は救済論に集中する。救済論には徹底した恩寵主義であるアウグスティヌスの線と、徹底した自力主義のペラギウスが両極にあり、その中間に自力と他力のバランスで中途半端な立場<神人協力説>がある。中世の神学的な基本線は、表向きアウグスティヌス主義とされるが、実質的には半アウグスティヌス主義から徐々に半ペラギウス主義へとずれていった。つまり、救済の理解においても聖なるもの(恩寵)が俗なるもの(人の功徳)に侵食されていく。
 半ペラギウス主義については、ベッテンソンpp103-106参照。アルル会議(473年)は半ペラギウス主義の主張をまとめた。カルタゴ会議の決定は教会全般にわたって不評で、完全なアウグスティヌス主義の教理はあまり広くは受け入れられなかった。当時の多くの人々は・・・、ペラギウスが肯定した点すなわち、人間側の責任、恩恵に協力する必要、神を正しいと呼ぶことには意味があるうんぬんは、大体において正しかったが、彼が否定した事柄、遺伝的に受け継いだ罪への性向、幼児洗礼の必要性、人類の罪の真実性、においては一般的に誤っていたと考えた。
 アルル会議は「人間の努力は神の恩恵と結び付けられるべきである。人間の意志の自由は消滅したのではなく、減退し弱められたのである。救われる者も危険の中にあり、滅びた者にも救われる可能性はあった。」とした。
 アルル会議の半ペラギウス主義に対しては、アウグスティヌス派からの反動が起こり、529年オランジュ会議が開かれる。ここで通された25の公認教理は、アウグスティヌスのことばのままで受け入れられた。しかし、悪への予定は異端とされた。つまり二重予定説は否定された。つまり、厳密な意味での本来のアウグスティヌスの主張は退けられて、穏健なアウグスティヌス主義ということになる。結局、ヤロスラフ・ペリカンのことばを借りれば、「中世神学の成長」とは「アウグスティヌスへの一連の脚注である」。
 肯定的主張としては「最初の人の罪によって自由な選択の能力はゆがめられ、弱められたので、神の恩恵が先立ち導きたまわないかぎり、人はだれも、当然そうすべきであるように神を愛し、神を信じ、神のために善を行なうことができない。 
 われらはまた、公同教会の信仰にしたがって次のことを信じる。すなわちバプテスマをとおして恩恵を受けた後もしくは忠実に労するなら、バプテスマを受けた者はだれでもキリストの援助と協力によって、魂の救いに関するあらゆることを行なう力と義務とを与えられる。
 しかしわれらは、ある者は神の力によって悪に予定さているということを信じないばかりでなく、そのようなよこしまなことを信じる者があるならば、心からの嫌悪をもって、その人はのろわれよというものである」

 中世教会千年の土台をすえた大グレゴリウスは、アウグスティヌスの影響を強く受けたが、アウグスティヌスほどには恩寵主義に徹しないで、半ペラギウス主義である。アウグスティヌスは、人間は堕落して自由意志までも正しく機能しなくなったといったが、グレゴリウスは、人はアダムにあって堕落したが、自由をすべて失ったわけではなく、ただ意志の善性を失ったのみだとした。とはいえ、恩寵なしに救いはなく人の功績もないとも強調し、神の「先行の恩恵」が人間を動かして善を願うように導き、新たにされた自由意志は「後続の恩恵」と共に働いて善を行ない功徳を積むのだという。
 要するに、人は救いを得るためには、神の恵みだけでなく人の功徳が必要とされ、教会が定めた徳を積むことが奨励され、教会は神と人との間を取り持つ仲保者となる。

 「アウグスティヌス的総合」とは、人間の自由意志と神の恩恵との両方を否定せず総合することである。アウグスティヌスが恩恵を具体的に表現するのは徹底した原罪論と二重予定説である。人間には原罪があるゆえに百パーセント恩寵によらなければ救われようがない。また、人間の救いは人間のなんらかの功績によるのではなく百パーセントの救いによるということは、言い換えると、すべて神の予定によるということになる。そして、その神の予定を徹底すれば、ある者を救いに選び、ある者を滅びに選ぶという二重予定説となる。また堕落前予定説ともなる。事実、アウグスティヌス自身は二重予定について記している。
 しかし、この二重予定説の難点は、神を悪の創造者とし、自由意志を全否定する決定論に陥ってしまうのではないかということである。ゴットシャルク(808−868)、ラムラムヌス(−868)はアウグスティヌスにしたがって二重予定説を唱えて、ライムスのヒンクマル(805−882)から激しく非難されている。

(4)煉獄の教えと免償状(免罪符)
 神人協力説に立つならば、信者は救いの確信をもてない。救いが百パーセント神の恵みによるのなら、罪人は己の無力を認めてキリストにすがれば救われるのだが、たとえ1パーセントでも人間の功徳が必要となれば、良心の敏感な人ほど自分の行いが神の目の前に十分な功徳であるかどうかを疑うからである。
 ローマ教会では、信者は司祭に罪を告白すれば、教会の司祭を通して、罪が赦され永遠の罰は除かれるものの、有限な罰は残るとされる。そして、現世か来世で、教会の定める善業を行なって、有限な罰を償わねばならないと教えられる。その償いの期間を免除・短縮するために教会が取り成すことを誓うことを免償という。
 ローマ教会においては、教会は一般信者から成る「聞き学び信じる教会」と教皇以下全聖職者から成る「教える教会」とに区別され、一般信者は俗なるものでキリストに直接近づくことができないとされる。信者は地上の「教える教会」と、聖母マリヤを筆頭とする諸聖人からなる天の教会とを仲保者として、キリストに近づくことができる。信者は諸聖人の大量の「功徳の宝庫」のおこぼれに与かることによって、罪を償い、キリストに至り救われるという。恩寵プラス諸聖人の功徳というわけである。
 この「功徳の宝庫」の教えと煉獄の教えが十五世紀に合体することによって、免償状(免罪符)が登場します。ローマ教会によれば、聖人でもない大多数の信者はストレートで天国には入れない。そこで天国の予備校つまり煉獄とはいる。煉獄で清めの試練を受けて償いを果たして後、天国に入るのである。しかし、現世にある信者が死者のために教会から免償状を買ってやるならば、死者はその試練の期間を免除・短縮されて天国へと移されるという。あるいは長々しい戒名を付けたら極楽で良い椅子が用意されているという、堕落した仏教寺院みたい。まさに、聖なるものが俗なるものに侵食された姿ではなかろうか。この免償状に対する抗議がルターによる改革の発端となる。