苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

古代教会史ノート18 アウグスティヌス(その2)『ペラギウス論争」

 ベッテンソンpp92-102
1.ペラギウス
(1)経歴
 ペラギウス(360頃-420頃)ブリトン人 (古代イギリス人)の修道士、平信徒。キリスト教徒の家庭に生まれる。前半生は不明。380年頃ローマに法律を学び、成人してから洗礼を受け、聖書研究に励み、その徳を修めた生活と、ラテン語のみならずギリシャ語も解し神学的学識も深かった。その上、修道士的禁欲主義の提唱と実践によって、ローマで名声をあげる。パウロの手紙の注解書、「三位一体の信仰」を出版。彼の信奉者が増えローマで指導的なキリスト者とみなされた。ただし、異端者の書物にありがちなことだが、彼の書物そのものは今日に残されておらず、彼の批判者の書物の中の「ペラギウスはこう言っているが・・・」という引用を読み取れるのみであるから、その引用は歪曲されている可能性がある。
 480年アラリックの率いるゴート族のローマ侵攻の際、多くの避難者とともに、ペラギウスと弟子カエレスティウスは対岸の北アフリカに来た。

(2)ペラギウスの思想
 ペラギウス「デメトリウスへの手紙」16 ラテン教父神学P.L.xxxiii. 1110 (ベッテンソンp92)には次のようにある。「われわれはあたかも神が、ご自分の創造になる人間の弱さを忘れて、彼らにはたえられない命令を負わせたかのごとく語る。そして同時に、義なる方に不義を、聖なるかたに残忍性を着せている。それは第一に、神は不可能なことを命令されたと不服をとなえることにより、第二には人は自分の力でどうにもできなことのゆえにさばかれる、と想像することによってである。・・・・神は正しいからであるから、不可能な事を命令しようとは思われなかった。また、聖なる方であるから、人間の力でどうにもできない事のゆえに、人間をさばかれるというようなことはない。」
  つまり、ペラギウスは、「神が我々に律法を授けられた以上、我々はこれを行なうことができる。」「完成が人間にとって可能である以上、それは義務である。」という。言い換えると、行なうことができるからこそ、神は我々に律法を授けられたのだと主張する。我々にできもしないことを命じ、それが守れないからということで罰するというのでは、神は正義ではないということになる。つまり、人間は自由意志でもって善を意志することができるという。
 これはつまり、アダム以来、原罪を背負っているということを否定するということである。
 「われわれは完全に発達した状態に生まれたのではなく、善と悪とをする能力をもって生まれた。徳も悪徳もなしに生まれたのであって、各個人の意志が働き出す以前には、神が与えられたもの以外は、何も人間の中にはないのである。」(Pelagius、pro liberum arbitrium Augustinus,De peccato originali14から)


 *「ペラギウスの所業」Augustinus, De gestis Pelagii23 ベッテンソンp94
 1. アダムは死ぬべき者として創造されており、罪を犯しても犯さなくても死んだであろう。
 2. アダムの罪は彼のみを傷つけたのであって、人類には及ばなかった。
 3. 福音と同じように、律法も人を御国へ導く。
 4. キリストの降臨以前に、罪を持たない人々がいた。
 5.新生児は、堕落以前のアダムと同じ状態にある。・・・・

 400年頃ローマ滞在中、ある司教がアウグスティヌスの有名な祈り「なんじの命じるところを与え、なんじの欲するところを命じたまえ」(告白10:29)を引用するのをペラギウスが聞いて、アウグスティヌスは人間の自由意志を無にし、道徳的責任能力を否定していると考えて攻撃し、相当な数の同調者を得て、論争が巻き起こった。


2.アウグスティヌスの救済論
 ドナティスト論争を通してアウグスティヌスの礼典論・教会論が明らかにされて行ったように、今度は、ペラギウス論争を通して、アウグスティヌスの救済論は内容を明らかにされていった。以下、主要なペラギウス論争文書から引用しておく。

(1)アウグスティヌスによる反ペラギウス文書
『罪の報いと赦しおよび幼児洗礼について』412年
 人間はアダムの堕罪以後原罪を持つゆえに、神の戒めを守って義とされることはできず、救いのためには恩恵による以外ないこと、幼児も洗礼を受ける必要があり、人間が無罪であると考えるのは誤りである。

『霊と文字』412年
 パウロの教えに基づく恩恵論と義認論を論じる。アウグスティヌスは「文字は殺し、霊は生かす」というパウロの言葉を、律法と恩恵という意味に理解し、律法を重視するペラギウス主義を批判し、恩恵による救いと意義を論じる。

『自然と恩寵』415年
ペラギウスが人間の意志の自律性と善悪をなしうる力を認め、神の恩恵なしに救いにいたることが可能だと説き、自然と恩恵を同一視している点を批判。
 恩恵は自然的本性を正しく導く働きをする。人間の自然本性はたしかに最初は罪も汚れもなく創られた。しかしこの人間の自然本性は、各人がアダムからこの本性を引き継いで生まれるため、いまや医者を必要としている。というのはそれが健全ではないからである。

『人間の義の完成』415年か416年
 人間は自然にそなわっている自由意志によって罪のない生活をしうるという完全主義を批判する。


(2)アウグスティヌスにおける人間の罪と救い
① 原罪
 ペラギウスは人間の前coram hominibusで人間を捕らえ、アウグスティヌスは神の前でcoram deoの人間を問題にするところに根本的な人間観の違いがある(宮谷宣史『アウグスティヌス』P126)
 罪とは無知・無力である。無知とは人間は善悪の判断ができないことをさす。無力とは人間はたとえ善悪を判断できても、その判断にしたがって正しく生きられないことを意味する。(ローマ1:19−23)
 また、アウグスティヌスは罪を情欲と結びつけて理解する。人間は情欲に支配されており、意志の働きを抑圧してしまう。(ローマ1:24,26と『神の国』における創世記3章の釈義参照)また、彼は、人間の陥りやすい罪として、高慢・傲慢を指摘する。(霊と文字12:19)
そして、情欲は、自己愛amor suiとなって現れる。自分の欲望のままに生きてしまう。
 結局、人間は個々の行いが善い悪いではなく、その存在が根本的に罪に汚れている。木が悪いから、悪い実を結ぶのであるとする。つまり、原罪がある、と。
 原罪については、詩篇51:5、『告白録』乳母子のねたみの目、梨泥棒の話参照。

② 義認論(「霊と文字」)参照)
 ペラギウスは、人間は本性に与えられている力によって、神の教えを守り、完全な義を獲得できるという。
 他方、アウグスティヌスは、人間は堕落しているので、神の教えを守れない。そこで、神は人間に恩寵を注ぎ、義とする。「神の義とはそれによってわたしたちが神の贈物のおかげで義人とされるものであり・・」「神の義というのは、神がわたしたちに単に律法の戒めにより教えるだけでなく、御霊の賜物によって与えてくださるものである。」(霊と文字32:56)


3.カルタゴ16回司教会議418AD5月1日
本会議で8か条が採択され、その夏皇帝ホノリウスはペラギウスを異端としてローマから追放する。その後のペラギウスについて確かなことは知られていない。
① 原罪(第1条―第3条前半)。アダムは自然の本性によってではなく、罪のために死んだ。そのため生まれたばかりの幼児にも原罪はあり、罪の赦しのための洗礼が必要である。洗礼なしには永遠の生命を受けられない。これらの考えを否定するものは異端である。
② 恩恵について(第3条後半―第8条)。キリストによる神の恩恵で人は義とされ、また、罪を犯さないようにされる。この恩恵なしに、自由意志によって神の掟を守ることはできない。人間はみな罪をもっているがゆえに「罪を赦してください」と祈る。これは自分を卑下しているのではなく、実際に罪があるからである。


4.神学史的見通し:罪観と神学の三体系 と 自由意志論争
① 「罪観は神学体系にとってのアルキメデス点である」A.A.Hodge
 人間における罪をいかに認識するかによって、三つの神学体系ができる。すなわち、人間の罪を聖書がいうままに深刻に捕らえ人間はアブノーマルだとするならば、恩寵によってしか救われようがないということになる。つまり、恩寵救済主義である。キリスト観は、神の御子贖い主ということになる。
 逆に、人間には原罪はなく、道徳的にノーマルなものであるとすれば、自力救済主義になる。キリスト観は人間の模範者ということになる。
 両者の中間に、神人協力説が来る。

自力救済主義:    ペラギウス――――――ソッシニウス―――――自由主義神学
神人協力説:        中世ローマカトリック―――――アルミニウス主義
恩寵救済主義:パウロアウグスティヌス―――ルター・カルヴァン

②自由意志
神学的な焦点は「自由意志」。教理史で繰り返される論争。
 堕落前のアダム・・・罪を犯さないことができるposse non peccare罪なき状態
堕落後のアダム・・・罪を犯さないことができないnon posse non peccare罪ある状態
 恩寵を受けた人・・・善を意志することができるが、罪を犯さないことは完全にはできない状態
 御国で・・・・・・・罪を犯すことができずnon posse peccare、善のみを意志することができる状態

*自由意志には四つの状態があることを、ウェストミンスター信仰告白第9章で整理しておく。
  http://www.ogaki-ch.com/WCF/word-index/ 参照。