最近、N.T.Wright(ライト)について神戸の遠藤克則牧師(改革長老教会)がしきりに情報をくださる。その中でも、改革派の伝統的立場の神学者たちからのライト批判のエッセー集パンフレットは参考になった。教団事務所に行く新幹線あさまの中で読んだのだが、共著者の中にR.C.スプロールの名が含まれていた。でも、そのエッセー集がどこに行ったのか見当たらない。忘れないうちに考えついたことをメモしておく。
わたしはまだちゃんとライトを読んでいないので、ここに書いたことはわずかなライト情報から論理的筋道からいって、こういうことだろうと推論した単なる思い付きにすぎないことをお断りしておく。NT・ライト読書会のHPにはいくつか翻訳論文が公開されている。多数の英語論文が掲載されたサイトもある。
1.義認の誤解
ライトによれば、ローマ教会と伝統的プロテスタントは義認の問題をめぐって、500年間議論してきたが、それは不毛な論議である。聖書に立ち帰れば第三の道がある。本来的に聖書において「義認」が意味することは有罪判決の撤去を意味するのではなく、「契約の民に入れられること」である。
しかし、ライトを批判する人は言う。義認justificationは法廷的用語であって、断罪condemnationと対義語である。ライトの義認論は根本的に間違っている。
以下、ライトとライトの義認理解批判のパンフについての私の思いつきをメモする。
第一。旧新約聖書を一貫する救いの思想は、アダム―ノア―アブラハム―シナイ―ダビデ契約とその成就としてのキリストの契約である。その根本思想は「わたしがあなたの神(あるいは父)となり、あなたはわたしの民(あるいは子)となる。」である。その意味では、ライトが<救いは契約の民の一員とされることである>と主張することは聖書的である(創世17:7,8、出エジプト6:7、2サム7:14、マタイ1:23、ヨハネ1:14、黙示21:3)。
第二。しかし、ライトが「義認」が契約の民の一員とされることを意味すると理解するのは、間違いである。契約の民から排除されているのは、罪ゆえであり、その罪の贖いが必要であり、贖いをなされた者は義と認められ、しかる後、神の民の一員とされる。アブラハム契約においては、それは表に出ていないことは認めるけれども。
第三。救いは、<Aから解放され、Bへと救われる>と表現される。聖書にいう救いは<罪とそれに対する神の怒りから解放され、契約の民のメンバーへとなる>ことを意味する。救いの前半は「義とされることjuustification」であり、後半は「子とされることadoption」を意味している。救いの理解において、伝統的な義認論者は前半に集中し、ライトは後半に集中したのだと言えよう。ライトは「子とすること」と「義認」とを混同している。
第四。今の時代、ライトのような主張が人気を得る背景としての伝統的プロテスタントの問題は、義認論にエネルギーを傾けるあまり、契約神学における神の民に入れられるという意味での救いを軽んじてきたことである。また、それはウェストミンスターが有効召命を受けた者がこの世にあってうける三つの主な祝福として挙げた、「義とされること」「子とされること」「聖とされること」のうち、「子とされること」を軽んじて来たことでもある。
2.N.T.ライトの広い視野の魅力
どうもNT.ライトについてはライト・ファンといってよい読者たちがくっついているようで、それは彼の学識と英国国教会主教という立場からすれば意外なほどの、砕けた包容力ある人柄にあるようである。ライト読書会のライト紹介を読めばそれがよくわかる。だが、そのあたりのことはここでは措いておく。
ライトのファンたちは、ライトの教えが「魂の救済」にとどまらず、クリスチャンとしてのこの世界での生き方という広い視野をもって展開されることに魅力を感じるようである。世界観としてのキリスト教ということである。「契約の民に入れられる」とは、地を相続する者としてのキリスト者の生き方へと視野を広げさせることになるから、当然である。
義認論集中主義では、神の法廷における赦しのことに焦点があるから、キリスト者の関心は勢い自分の内面にのみ向かってしまい、この世界におけるキリスト者としてのライフスタイルには思いが及ばなかったのではないかということは的を射ていよう。しかし、「世界観としてのキリスト教」というのは、格別新しい視点ではない。救済論中心の狭い意味での福音派の人々にとっては新鮮に映る視点なのであろうが、「世界は神の栄光の舞台である」としたカルヴァン以来、展開してきた改革派神学は、「創造の回復」というモチーフでまさに世界観としてのキリスト教を展開してきた。ただ終末論との関係で言えば、19世紀の楽観的世界観の時代に盛んだった後千年王国再臨説の時代にあっては、世界観としてのキリスト教に元気があったのだろうが、20世紀に二つの世界戦争を経て世界は悲観主義の時代に入ってしまい、キリスト教も後先年王国再臨説は消えてしまい、世界観的なキリスト教信仰は失われて人々の関心は内面、実存に移って久しくなったということであろう。今でもキリスト教再建主義者たちは、世界観的キリスト教を強く唱えているし、彼らは千年王国後再臨説に立っている。
だが、聖書によれば、千年王国後再臨説に立とうが立つまいが、地の相続は「子とされること」に伴う特権・責任であって、義認に伴うことではない。使徒パウロは、ローマ書において、義認論を展開してきて、その後、「子とする御霊」について述べて、キリストと共同相続人としての任務について語っている。
「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。」(ローマ8:16−19)主イエスは主の弟子たちを祝福して「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」とおっしゃった。
改革派神学者は、相続をともなうアブラハム契約と「子とすること」という重要な主題を軽んじてきたことを、ライトによって反省すべきである。本来、それは聖書的なモチーフであり改革派神学の伝統の中にあることなのである。
3.時代背景と東方神学、東方教会への視野の広がり
東西冷戦の時代には、共産主義を敵視していたビリー・グラハムを代表とするようなevangelicalsは世界平和に取り組む動機を持たなかった。しかし、冷戦が終わり世界に広がる民族紛争と宗教紛争、地球環境問題といった地球規模の危機を目の前にして、evangelicalsに属する人々もキリスト教会がひとつになっていくべきであると思えるようになってきている。
そこに、ライトは義認論で分かれてきたカトリックとプロテスタントに、「義認とは契約の民に入れられることだ」と第三の道を示すことによって融和の道を示し、さらに、この道ならば東方教会も包括できるという。
そもそもペラギウス論争を経験していない東方教会の神学は、原罪論が欠けている。ライトの義認理解によれば、救いとは「契約の民の一員とされること」であり、罪は救いにおける主題とはされないから、原罪論のない東方教会・東方神学もまた視野の中に入ってくる。これまでリベラルなエキュメニズム運動を横目で見て、その運動が聖書主義から逸脱しているゆえに参加すべきでないと言いながら、内心、このままでよいのかと思っていたevangelicalsは、ライトの聖書解釈に立つならば聖書主義に立ちつつ東方教会とも融和の道を見出せるのではないかと希望を抱くのであろう。
西方教会はパウロ〜アウグスティヌスの伝統に立つ原罪―恩寵贖罪の法的・救済論的神学に立ってきた。カトリックとプロテスタントの義認論論争も、この枠内での論争である。
他方、東方教会はオリゲネスの影響が大きく原罪という視点はなく、もともと、「神のかたち」とはいえ、完全を目ざす者という意味で不完全な存在として造られた人間が完全を目ざして進んでゆくプロセスとして救済を捉え、これをテオーシスと呼んでいる。テオーシスは一応、西方神学における聖化と重なる概念である。東方の神学は、存在論的な神学である。
西方教会の神学はおもに罪と罪からの救いの問題を扱って来て、東方教会の神学はおもに罪のことはさて措いて神のかたちとしての人の完成へのプロセスを考えてきたということができよう。ライトは罪の問題を横に置くことによって、東方教会に近づいたのである.
4.N.T.ライトの欠陥
しかし、ライトにはライトとしての問題がある。義認とは、神の民の契約共同体に入れられることであるというライトは、契約に入れられることの障害となる罪の問題を軽く見ている。贖罪があってこその契約共同体への参加なのである。キリストは我々を罪から救うために来られたことは、聖書が創世記から黙示録に至るまで、ありとあらゆるところで語っていることであって、覆いようがない。
パウロは言う。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(1テモテ1:15)
洗礼者ヨハネはイエスを長い指で指差して言う。
「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)
御使いは言った。
「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)
聖書は、首尾一貫して「罪とそれに対する神の怒りから救われ、神の民(子)とされる」ことを救いの中心概念として提示している。詳しくは、いのちのことば社『聖書神学事典』「救い」の項目参照。
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20101212/p1
<追記1>
福音派にとって、ライトのもうひとつの魅力は、彼が聖書学者であって、教義学者でないという点にある。バプテスト的福音派は神学的伝統を軽視し、関心も薄く、聖書そのものに固着する素朴な性向を持っているから。
また、聖書を単なる文化的所産としての諸文書の集成にすぎないということを前提とする近代主義神学にとっては、聖書を一冊の統一された啓示文書であることを前提とする組織神学の成立自体ナンセンスとされるわけだから、伝統的立場に立つ教義学者はリベラルな人々に対して発言するルートを持ち得ない。しかし、聖書学者であれば、リベラルな立場の人々に対しても発言ルートを持ちうるのではないかと期待される。ライトには、そういう面でも魅力があると映るのだろう。
<追記2>
「ちゃんと読んでない」のにここまで書くとは・・・あきれたもんだと自分で思うのですが、書いてしまったので、このままにしておきます。
*ライトを知っている読者様
筆者は思い違いをしているよということでしたら、ご指摘くださって上述のサイトに関連論文があれば教えてください。
<追記3>12月20日・・・学者ではなく牧師です
「のらくら者の日記」というブログの管理人である方が、先日記したN.T.ライトに関する私の「単なる思い付きのメモ」とそれに対する山崎先生の丁寧なコメントについてご紹介くださった。そこで、筆者のことを神学のエキスパートとご紹介くださった。
「のらくら者」さんは良い意味でそのように書いてくださったらしいけれども、筆者は神学のエキスパートではなくて牧師である。あらゆる種類のさまざまな状況に置かれた人々に会って、耳を傾け、その方のために祈り、そして福音を伝える務めを持つ牧師は、エキスパートつまり専門家であるよりも、ジェネラリストでなければならないと思っている。ときどき、私は学生時代に読んだパスカルのことばを思い出す。
「オネットム。人から『彼は数学者だ』とか『説教家だ』とか『雄弁家だ』と言われるのでなく、『彼はオネットムだ』と言われるようでなければならない。」