5.改革派正統主義の予定論論争
(写真はhttp://greenhouse100.seesaa.netより)
17世紀プロテスタント正統主義時代のドイツ、フランス、イギリスと来て、最後にオランダの神学者アルミニウスが提起した提起した予定論をめぐる論争を扱う。オランダといえばチューリップだからTULIP論争。TULIP論争は今日のプロテスタント教会にまでずっと尾を引いている神学論争であって、福音派内でもリフォームドとアルミニアンが折り合わない点である。ちなみに、「アルメニアン」と訳しているのを時々見るが、アルメニアンではアララテ山の麓のアルメニア人だと思われてしまう。アルミニアンである。だがアルミニウスを「アルミニウム」と訳したのは・・・見たことがない。
アルミニウス(一五六○−一六○九)は、もともとカルヴァン主義者であったが、カルヴァン主義の予定説に疑念を抱くようになり、ここに予定論論争が巻き起こった。アルミニウスは論争のさなかに逝去するが、1610年彼の教説を支持する人々は「抗議書(レモンストラント)」を提出した。そこでアルミニウス主義者はレモンストラント派とも呼ばれる。彼らが否定したカルヴァン主義予定説の五点は、英語ではしばしば頭文字を取ってTULIP(チューリップ)と呼ばれる。1618年ー1619年にこの問題の解決のために8カ国の改革派教会の代表が集い、ドルトレヒト会議が開かれる。結果ドルト信条(ドルトレヒト信条)が1619年に出され、レモンストラント派は退けられた。歴史的経緯の詳細は、本稿では扱わず、その論争の要点とその後の展開に簡単に触れるにとどめる。
(1)聖書における予定説
「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」ローマ8:30
このみことばは人の救いの順序について、あきらかにしている。それは、<予定−召し−義認−栄光付与>という順序である。予定とは、「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようと定めておられた」(エペソ1:4)ということにほかならない。世界の基の置かれる前、つまり、万物が創造される前に、神はすでにキリストの民となる者をみこころのうちに定めておられたというのである。
パウロ以後では、まずアウグスティヌスが予定の教理をあきらかにした人物である。アウグスティヌスはペラギウス論争において予定の教理を明らかにした。ペラギウスはひとことでいえば人は自力救済主義・功績救済主義者であり、これに対してアウグスティヌスは恩寵救済を徹底的に論じたのであった。その恩寵救済論の究極的な聖書的表現こそ、予定の教理であった。
功績救済主義は、人はその善い行いによって神に認められて救われるという。そこで、恩寵救済主義はパウロがそうであったように、「その子どもたち(エサウもヤコブ)はまだ生まれておらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える』と彼女に告げられたのです。」という。つまり、善悪の功績がその人が神に救われる基準でなく、ただ神の主権的な選びが人の救いの根拠だというわけだ。
(2)TULIP論争(予定論論争)
第一点はTotal Depravity(全的堕落、全的無能力)である。アダムにあって人間は全的に堕落して いるので、救いにともなう善を意志することも、回心のために備えることもできないというのがカルヴァン派の主張である。これに対してアルミニウス主義では、アダムにあって堕落した人間は神の怒りの下にあるものの、人間は自ら意志して神のわざに協力して神に立ち返る能力を持っているという。
第二点はUnconditional Election(無条件的選び)である。カルヴァン主義では神は人間が何を思い、何を言い、何をするかという条件によらず、その主権によって選びたまうという。アルミニウス主義では、神はあらかじめだれがキリストを信じるかを見ておられ、その予知に基づいて信じる者を救いへと選ぶという。
第三点はLimited Atonement(限定的贖罪)である。カルヴァン主義では、キリストは救いへと選ばれた者のためにのみ贖罪のわざをなさったという。アルミニウス主義では、キリストの贖罪のわざはキリストを拒む者のためにもなされたという。
第四点はIrresistable Grace(不可抗的恩寵)である。カルヴァン主義では、神が選んだ人々を救うために聖霊を送られると、その人は神に抵抗することができずかならず回心するという。他方、アルミニウス主義は、人間は救おうとする神の恵みに抵抗することができるという。
第五点はPerseverance of Saints(聖徒の堅忍)である。カルヴァン主義は聖徒は一度信じて救われれば、最後まで確実に信仰を保持して永遠の救いにいたるという。アルミニウス主義は、一度救われた者が堕落し滅びることもあるという。
要するに、カルヴァン主義は救いにおいて神の主権と恵みを徹底的に強調し、他方、アルミニウス主義は救いにおいて人間の主体性をある程度認めようという立場である。とはいえ、アルミニウスはペラギウスのように人間の原罪の事実まで否定はしない。
神学には三つの体系があると、A.A.Hodgeが書いている。第一は人間の全的堕落と百パーセントの神の主権的恩寵を主張するパウロ―アウグスティヌス−ルター−カルヴァンの体系であり、第二はその対極に当たる人間の原罪を否定し、自力救済を主張するペラギウス−ソッツィーニ−リベラリズムの体系であり、第三は両者の中間、つまり、原罪を部分的に認め、神と人が協力して救いが達成されるとする半アウグスティヌス(〜半ペラギウス)−アルミニウスの体系である。
予定論論争それ自体はカルヴァン主義の勝利としておわり、アルミニウス主義の牧師たちは多数追放され、上述五つの点を明確にしたドルト信条が出される(一六一九年)。ドルト信条は「死せる正統主義」の産物という偏見をもって見られがちなのだが、実際にドルト信条自体を読んでみると、実に、首尾一貫して論理は周到であるばかりでなく深い敬虔を感じさせるものである。しかし、ドルト信条によって明確にされた厳格な予定の立場は自派を強固にすると同時に、他派との協力を難しくするという結果をも生むことになったのも事実である。
他方、アルミニウス主義の神学的主張も生き続けて、近代プロテスタント諸派に影響を与えて行くことになる。英国国教会のカンタベリー大主教という国教会の最高権威の座にあったウィリアム・ロード(一五七三−一六四五年)は、アルミニウス主義を国教会の立場として採用した。そして、後に英国国教会から独立したメソジスト教会は、アルミニウス主義を継承し、メソジスト派から生まれてきたホーリネス、ナザレン、アライアンスなどもアルミニウス主義を継承していくことになる。バプテスト教会も、一般バプテストはアルミニウス主義を、特定バプテストはカルヴァン主義を採用することになるのである。
このように、近代プロテスタントの歴史において、カルヴァン主義とアルミニウス主義の予定論論争は、教会・教派の分裂をも招き、今日もなお決着がつかない。厳格なカルヴァン主義に立ったバプテストの説教者スポルジョンが、その主張のゆえに、教会を二分することになったというのは有名な話である。
今日でもなお日本の福音派内で改革派系ときよめ派系の協力にはむずかしいことがある。予定論の五点に関して、きよめ派系の諸教団は五点ともアルミニウス主義に立ち、改革派系の諸教団は五点ともカルヴァン主義に立ち、バプテスト系は両者の中間に位置しているというぐあいである。
6.正統主義時代の評価―死せる正統主義か黄金時代か?―
ルタ−、カルヴァンを初めとする改革者たちが次々に登場した時代の後には、当然のごとく、この宗教改革の成果を復元再生し、歴史上の重要文書資料を網羅し、驚くべき熱心さをもって聖書の教えを系統立てる神学運動が始まった。論敵として想定されたのは、一つにはローマ教会であり、また、他派のプロテスタントであった。この時代の神学は、その後のプロテスタントの規範となっていくので、プロテスタント正統主義(オーソドックス)という。
a.弁証法神学・エキュメニズム陣営からの批判
この正統主義神学運動は、ルター派教会と改革派教会において展開されて、それぞれ大部のプロテスタント組織神学の体系が形成された。ところが、弁証法神学・エキュメニズム陣営の立場からする教理史や教会史の見方では、一般に正統主義神学はdead orthodoxyと呼ばれてすこぶる評価が低い。
神学の内容に関する正統主義を軽く見る理由の一つは、自由主義神学が人間の生命感とか個性を重んじるのに対して、正統主義は前世紀のオリジナルである宗教改革者の体系化による拡大コピーにすぎないと見られるからである。第二は、自由主義神学は十八・十九世紀の啓蒙主義の認識論・哲学に基づく歴史学や文献批評学を前提として用いているのに対して、正統主義神学は啓蒙主義的認識論の洗礼を受けていない時代の重厚長大な無用の産物とされるからである。
b.福音主義に立つ我々として
正統主義時代に完備された神学的弁証は、事実上、福音主義神学の直接的なルーツである。例えば改革派神学の代表的テキストであるC.Hodge(一七九七−一八七八)の『組織神学』は、スイスの正統主義の代表的神学者の一人フランシス・トゥレティーニFrancis Turretini(一六七一−一七三七)のInstitutio Theologiae Elencticae (3 parts, Geneva, 1679-1685)を土台としている。トゥレティーニは、ドルト信条の擁護者であり、言語霊感説の主張者であり、彼のInstitutioは改革派神学のサークルでのスタンダードとなり、ピューリタンに多大な影響を与えた。プリンストン神学校では、チャールズ・ホッジの組織神学が出現するまでの標準教科書であったが、長らく歴史の中で忘れられてきた。また、C.ホッジのSystematic Theologyの強い影響下に、L.BerkhofのSystematic Theologyは書かれているし、バプテストのA.ストロングAugustus Hopkins Strong(一八三六−一九二一)のSystematic Theologyは書かれ、邦訳もあるH.シーセンHenry C. ThiessenのIntroductory Lectures in Systematic Theology はホッジやストロングをもとにして書かれている。今日福音派の代表的組織神学テキストであるM.エリクソンMillard J. EricksonのChristian Theology『キリスト教神学』はこれらの流れのなかに生まれた 。福音派の事実上の頭(mind)のルーツは、正統主義神学にあるといってよい。福音派は大ざっ ぱな言い方をすれば、正統主義のマインドと、敬虔主義運動のハートから成っている。しかし、カルヴァンの研究は広く深くされてきたが、F.トゥレティーニの研究は最近ようやく緒についたばかりなのである。
我々が正統主義神学を高く評価すべき、第二の理由は、自由主義神学が前提とするところの啓蒙主義哲学の認識論に問題があるからである。啓蒙主義の哲学は理神論的なものであって、本来の聖書的な超自然主義的なものではない。理神論とは「神による創造は認めるが、それ以後、超越的な神は世界に関与せず世界は自動機械として動いているので、奇蹟も啓示もありえない」という世界観である。自由主義神学は、この理神論に基づく文献批評学・歴史学を、超越的な神からの啓示である聖書の本文研究に適用するという論理的矛盾を犯しているのである。正統主義神学は改革者たちと同様、聖書的な神観と世界観に基づいて神学と構築している。すなわち生ける神が万物を造り、この神は世界を保持し御旨にしたがって奇蹟や啓示をなさるという世界観である。こちらの方が、自由主義の二元論よりもよほど筋が通っているのである。
評価すべき第三の理由は、宗教改革時代から正統主義時代に、多くの信仰告白が生み出されたという点である。教会史上、多くの信条が次々に生み出された時代というのは、二つの時代に限られている。第一は、古カトリック教会の時代であり、第二はプロテスタント宗教改革とその直後の時代である。信条は、教会が自らを他者(異端・異説)と区別するために機能するものである。古カトリック時代には、使徒信条はグノーシス主義と区別してなされた信仰告白であり、ニカイア信条はアレイオス派と区別して、カルケドン信条はキリスト論に関する両極端から区別してなされた信仰告白であった。
プロテスタント正統主義の諸信条は、カトリック教会と他派プロテスタントとの区別するための信仰告白であった。特に、カトリックに対してより明確に教会のことばとして語ろうという意識が働いていた。マイナス面としては、聖書が今も語りかける生ける神のことばとしてではなく、信条の証拠テキストの集成というような読み方がされるようになってしまったきらいがあるということである。特にルター派においては神学論争そのものが激しくなり、正統教理のみを強調し、正統実践を軽んじる嫌いがあったので、生き生きとした敬虔が失われたと言われる。改革派圏内では正統教理と正統実践はふたつながら常に強調されたといわれる。
ここに代表的なプロテスタント信条を名前だけ掲げておきたい。
ルター派では、大教理問答書1529年、小教理問答書1529年、アウグスブルク信仰告白1530年、シュマルカント条項1537年、和協信条1576年。
http://www.remus.dti.ne.jp/~hiromi-y/sinzyou.html参照。
改革派では、第一スイス信条1536年、フランス信条1559年、スコットランド信条1560年、ベルギー信条1561年、ハイデルベルク信仰問答1563年、第二スイス信条1566年、アルミニウス主義条項1610年、ドルト信仰基準1619年、ウェストミンスター信仰告白1646年・・・・http://www.ogaki-ch.com/WCF/text/index.htm
ローマ教会では、これに対抗して、トリエント会議の教規および教義に関する教令1564年、トリエント信仰告白1564年。もろもろの信条のテキストはPhillip Schaff,Creeds of Christendomが便利。