苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

旧約のイエス その1 イザヤが見たイエス

 このごろ気になっている聖書のことばがある。
「『主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。』イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」(ヨハネ12:40,41)
 イザヤがイエスの栄光を見たとは、イザヤ書6章の出来事を指している。次のように記されている。
イザヤは、「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。・・・『聖なる、聖なる、聖なる万軍の』(6:1,3)そのときイザヤは言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍のである王を、この目で見たのだから。」(6:5)。そのあと、イザヤは主から罪のきよめを受け、主の召しのことばがあり、イザヤがそれに応じた。そのとき、主は「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」(6:10)と言われた。この6章10節のことばをヨハネ12章40節が引用していることからして、イザヤがイエスの栄光を見たという事件は、このイザヤ6章の出来事をさしていることは明白である。
 このときイザヤはイエスの栄光を見たと、ヨハネ福音書は告げている。ということは、万軍のとは、すなわち、イエスであるということである。イザヤがこの出来事に直面したのはウジヤ王の没年紀元前740年のことである。

 イエス復活の日、エマオ途上で弟子たちに「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」(ルカ24:27)。そのとき、「あの日、イザヤが見たは、このわたしなんだよ。」と話されたのだろうか。