苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

古代教会史ノート16 東方の教会−−カルケドン派、非カルケドン派、アッシリヤ東方教会、景教

1.流れの整理
 東方教会は、カルケドン派と東方アッシリヤ教会と非カルケドン派に分けられる。
 カルケドン派とは正教(オーソドックス)のことである。コンスタンティノープル総主教庁とする。ギリシャ正教ロシア正教グルジア正教ルーマニア正教ブルガリア正教セルビア正教などがある。正教においては西方のローマ教会が世界中の教会をひとつの組織とするのとは異なり、一つの国に一つの独立組織を持つという原則がある。カエサロ・パピズム(皇帝教皇主義)だからである。コンスタンティノープル総主教庁とする東方教会が西方のローマ教会と分裂するのは、11世紀頃からの長いプロセスを経て後だが、最終的には中世のフィリオクエ論争をめぐっての1054年のこと。
 非カルケドン派とは、431年のエペソ公会議は受け入れたが、451年のカルケドン信条を拒否した派である。彼らはカルケドン派からは「単性論」と呼ばれるが、彼ら自身は単性論であるとは認めていない。シリア正教会の主張によれば、シリア正教会は、「キリストの真の神性と真の人性は、彼の中で本質的に統合されている」と言い、「キリストはその二つの性質からなる一つの具体的な性質を持つ」と信じている。非カルケドン派にはいる東方諸教会シリア正教会アルメニア使徒教会コプト正教会エチオピア正教会(1975年まで国教)、エリトリア正教会(1993年エチオピアから独立)がある。彼らは431年ネストリオスを排斥したエペソ公会議は受け入れているが、カルケドン信条は拒否した。
 アッシリヤ東方教会は本来、シリア教会の東方地区つまりペルシャ地区だった。ところが431年エペソ公会議で「テオトコス論争」に敗れて排斥されたネストリオスを、アッシリヤ東方教会は受け入れたゆえに、正統派から長らく異端とされることになった。それゆえ、一般にアッシリヤ東方教会はネストリオス派と呼ばれるが、事実は、アッシリヤ東方教会はもともとシリヤ教会の一部であり、東部シリヤ教会と呼ばれることもあった。彼らが431年にネストリオスを受け入れたためにシリヤ正教会から外れたということである。中国では景教と称される。

 ただし、実は、ネストリオスを異端と認定したのはキュリロスと教会のまちがいであった。「ネストリオス主義」という異端の教えは、ネストリオス自身の教えではなかったし、彼が設立してはるか中国にまで伝わった景教の教えでもない。ネストリオス自身と景教キリスト教は、アンテオケ型の正統的なキリスト教であった。(詳細は、ジョン・M・L・ヤング『徒歩で中国へ』(イーグレープ2010年)の5章、6章を参照せよ。)

  WEBLIO辞書より

2.シリア正教会(資料はシリヤ正教会のHPhttp://www.syrian.jp/001-1-1.htm
 「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」(使徒11:26)アンティオキアの教会はキリスト教世界においてエルサレムの次、2番目に設立された教会。カエサレアのエウセビオスの『年代記』によれば、使徒ペテロがアンティオキアで初めて司祭職制を創始し、彼自身がその最初の主教。総主教座は歴史の混乱期にあって518年にアンティオキアから移らざるを得なくなり、現在はダマスカスにある。

*教義
 ニカヤ信条、ニカヤ・コンスタンティノポリス信条を告白する。だが451年カルケドン信条を拒否したため、「単性論教会」として西方からは異端視される。「キリストの真の神性と真の人性は、彼の中で本質的に統合されていると信じます。」というように、神性と人性の区別を拒否するが。しかし、シリヤ正教会自身は非難されるようなエウテュケス主義ではないという。
*特徴
第一に、セム族の文化を反映したキリスト教の形式を維持。
第二に、アラム語の一方言であるシリア語を典礼に用いる。
第三に、典礼は最も古来の形式を維持。
第四に、シリア正教会の信徒は多民族で構成されており、キリストの身体の統一性を体現。
 シリア正教会は1960年から世界教会協議会のメンバー。シリア正教会は、ローマ・カトリック教会との間で2つの共同声明を出し、また、東方正教会とも共同声明を出した。

3.アッシリヤ東方教会
a.ペルシャの教会
 ペルシャに最初に福音をもたらしたのは、ペンテコステエルサレムに集っていたユダヤ人や改宗者たちであろうが、伝道者としてシリヤ正教会の働きの中で派遣されたのは使徒トマスである。35年には早くもトマスはペルシャ地域に伝道した。
 東部のシリヤ教会が431年エペソ公会議で拒否されたネストリオスを受け入れたため、東部が分かれることになってしまった。これがアッシリヤ東方教会で、トマスが初代大主教とされる。
 ペルシャはローマと敵対しており、ローマがキリスト教を国教とするに及んで、ペルシャ国内のアッシリヤ東方教会ゾロアスター教の僧侶たちの策略もあって厳しい迫害下に置かれる。

b.インドの教会
 シリア語を話すキリスト教は大変早い時期に南インドケララ(古い著書はしばしばマルバラ湾)にたどり着いた。偽典言行録に収録された伝承と地方の歌によれば、キリスト教は紀元後52年に使徒トーマスによりここに初めて伝えられ、彼は殉教するまで多くの現地人を改宗させた。(『トマス行伝』)
 ケララとタミル・ナドゥからローマ居住地跡とともに発見されたネロの治世を記したローマ貨幣の備蓄が示すように、この時期ローマ人とインド人の間の貿易が盛んで、モンスーンの風は湾岸からケララまで直接3ヶ月もかからずに船で旅することを可能とした。遅くとも2世紀か3世紀までにはケララに相当のキリスト教徒共同体が創設された。

c.中国の景教(波斯寺のちに大秦寺)
 西安に781年に建立され、1623-25年に再発見された「大秦景教流行中国碑」。この記述によれば、中国唐の太宗皇帝とペルシャの教会の宣教師との最初の公式な接触は635年。もっとも、非公式な接触はより早かっただろうが。この年、修道士阿羅本(おそらくアブラハムに充てた中国名)は宮廷の客人として迎えられ長安の都に入った。彼の聖典の写本は中国語に翻訳され皇帝太宗によって個人的に吟味され、彼は638年以下のように声明を布告した。これは中国の公文書にも記録されている。
「道に不変の名は無く、賢人に不変の体もない。方に合った教えを設け、密に人々を救う。大秦國(シリア)の大徳・阿羅本は経典と聖像を持って遠くよりこれを献納するため京に上った。その教旨を詳らかにすれば玄妙無爲である。その元宗を見ると、生を成すをして要と立する。・・・民を救済し人に利するため宜しく天下に行うべし。」以後、およそ200年間キリスト教宣教が保護され、全土に大秦寺が建てられた。
 しかし、845年、景教の流行は、皇帝武宗によって突然の終焉を迎える。彼は、4千600の僧院を破壊、26万5千人の仏教の僧や尼を還俗させた。3千人のキリスト教徒と拝火教徒修道会員を還俗させ、すべての外国人は自国へ送還された。これで中国における景教は滅亡した。

d.景教の日本伝来の可能性 甲論乙駁
 『景教の研究』で有名な佐伯好郎博士は1908年(明治41年)論文「太秦を論ず」において、京都の太秦寺のいすらい井戸や三柱鳥居や地名などから、太秦寺は、唐代の中国で流行した大秦寺と同じくキリスト教の寺であると提唱した。そして、渡来人である秦氏は古代ユダヤキリスト教徒である、と主張した。太秦寺建立は603年説と622年説がある。
 学界は時代錯誤であるという批判を佐伯説に向けた。すなわち、景教が中国にはいったのは、唐の太宗皇帝の時代の635年であり、その後、約200年間、中国では大秦景教が流行した。つまり中国における景教は7世紀前半から8世紀にかけてであった。しかも中国では最初、彼らの寺の名は波斯寺と呼ばれ、大秦寺と名を変えたのは745年であった。ところが、秦氏がこの列島に渡来したのは4-5世紀である。中国に流行した景教が日本に渡来したというなら、順序が逆である。・・・というわけで、学界では太秦寺=大秦寺=景教寺院説は顧みられない。
 これに対して、佐伯氏はなお自説に固執し、後年になると、いや秦氏はもともと景教以前の古代キリスト教徒であり、彼らは中国をパスして日本に渡来したので、キリスト教は中国より先に日本に伝わったのだという。秦氏来日の記録は、日本書紀によれば、応神天皇の283年に弓月君百済から127県の1万8670人を連れて来たという。そして、この弓月君は何者かといえば、天山山脈の北にあるバルハシ湖に流れるイル川の上流にあった弓月国の出身であるという。
 現状としては、佐伯説はトンデモ学会でのみ話題になる珍説にすぎない。もし佐伯説の逆転ホームランがあるとしたら、「弓月国」なるキリスト教国が実在したこと、その1〜2世紀ころ弓月国から東方へ向けての集団移住があったこととを、考古学者が遺跡を発掘して証拠立てる必要があるのだろう。そしたら、シュリーマンのトロイ発掘のようなことになる。それなしに、仮説の上に仮説を積み上げていっても、珍説は珍説のままである。
 ただ現状で一点だけ佐伯説に有利なことを述べれば、たしかに紀元2世紀にはすでにシリヤ教会は佐伯氏が弓月国があったという中央アジアにさかんに伝道をしていたという事実がある。
シリヤ正教会中央アジア伝道・・・HP http://www.syrian.jp/002-3-4.htm