苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

古代教会史ノート13 コンスタンティヌス帝回心の教会への影響(2)

6.非戦論から義戦論へ

<参照>木寺廉太『古代キリスト教と平和主義』立教大学出版2004年

 キリスト教が「体制内の宗教」と化するまでは、キリスト教ローマ帝国の迫害の対象であった。体制内の宗教とされるまでは兵役拒否、平和主義を唱えることができた。だが、体制内の宗教となり、国境線での紛争が頻発する状況にあったとき、信徒の兵役に対する教会の態度もほぼ唯一の選択しかありえなくなってしまう。その行き着いたところが、416年。東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世は、キリスト教徒のみをローマの軍隊に受け入れ、異教徒を軍隊から排除してしまった。

(1)史料
a.使徒10章 カイザリヤで百人隊長コルネリオの改宗の記事がある。その後、沈黙からの推測であるが、ベイントンのいうとおり「新約聖書時代の末から紀元170-180年ごろまでには、軍隊にキリスト教徒がいたという証拠はない」し、信徒の兵役の問題もまだそのときまでまったく争点となっていない。172年にキリスト信徒が軍隊にいた証拠が現れる。また兵役を忌避する例も見られるようになる。

b.ケルソスによるキリスト教批判(178AD)。木寺P3
「もし万人がキリスト教徒のようなことをしたならば、すなわち、軍務を拒否したならば、皇帝は孤立無援となり、世界の事物はもっとも無法粗暴な蛮族の手中に陥るであろう。」

c.テルトゥリアヌスは、皇帝などにあてた護教的著作では、信徒が忠実な市民として兵役についている事実を伝えているが、とりわけ後期の著作で、信徒の兵役に反対している。
「信仰に入って洗礼を受けたならば、多くの人がしたように、直ちに兵役を去るか、それとも、兵役についていないときでも許されないようなことを神に逆らって犯さないために、あらゆる種類の逃げ口上を言うか、さもなければ最後に、市民の信徒でもやはり受け入れるべき運命(殉教)を神のために耐え忍ぶかしなければならない。」(『兵士の冠について』11:4)p4

d.キュプリアヌス(カルタゴ司教248-258在位)は信徒の生活を『霊的な戦い』とみる表現は多いが、戦争や殺人を非難した個所もあるが、兵役問題にはふれていない。彼の記述のなかには当時、少なくないキリスト者で兵士たるものたちがいたようである。

e.ディオクレティアヌス帝の時代(在位280―305)、大迫害が起こるが、その前に散発的ながら、キリスト教徒を軍隊から一掃しようとする動きがあった。大迫害でまず血祭りにあげられたのは軍隊にいた信徒たちであった。

g.資料 兵士たちの殉教
 彼らが処刑された理由はベイントンによれば「多くの兵士が武器放棄のゆえでなく、信仰のために殺された。」
*殉教したマリノス エウセビオス『教会史』Ⅶ−15:1−5
ガッリエヌス帝治下、皇帝崇拝を拒否したマリノスという士官は処刑されている。彼の昇進をねたんだ他の兵士が「彼はキリスト教徒であり、皇帝がたに犠牲をささげていないので、古い法によるとローマ人にふさわしい地位につくことは許されていない」と非難した。そこで、総督アカイオスはマリノスを尋問し、3時間、棄教か殉教かを考えさせた。マリノスに剣と福音書とどちらを取るかと問うた所、彼は福音書を選び、殉教した。とはいえ、教会は、軍隊にキリスト者がいるということ自体はある程度寛大に見ていた。また帝国政府側としては、皇帝崇拝の拒否が処刑理由だった。p6

*兵役拒否者マクシミリアヌス21歳
 『マクシミリアヌスの行伝Acta Maximiliani』pp7−8
 295年3月12日アフリカ・プロコンスラリスのテウェステ。彼は新兵として徴募されたが、拒否して処刑された。「キリスト教徒だから兵役につくことはできない。悪いことはできない。私はキリスト教徒です。」と主張した。良心的兵役拒否である。総督は兵役侮辱の罪、宣誓拒否という不服従の罪で処刑された。

*マルケッルスの殉教 Acta Marcelliより
298年7月21日
アグリコラヌス「おまえは通常勤務の百人隊長として兵役についてきたのか」
マルッケルス「ついてきました。」
ア「いかなる狂気にとらわれて宣誓を捨て、そのようなことを公言したのか。」
マ「神をおそれるものに何ら狂気もありません」
ア「おまえは武器を捨てたのか」
マ「捨てました。主キリストの兵士であるキリスト教徒がこの世の軍隊で兵役につくことはふさわしくなかったからです」
ア「マルケッルスの行為は軍規によって罰せられるべきものだ。通常勤務の百人隊長として兵役についてきたマルケッルスは宣誓を公に拒否し、それによって自らけがされたと言い、さらに、属州総督の報告にあるような狂気に充ちた言葉を吐いたゆえに、剣で斬首されるものとする。」

*古参兵ユリウスの殉教Passio Iuli Veterani 304AD春
属州総督Maximus「神々に犠牲をささげることを命じている皇帝がたのご命令を知らないのか」
I「知ってはおりますが、私はキリスト教徒なので、あなたが望んでおられることをすることはできません。」
M「香を焚いて、解放されるのがなぜ悪いのか」
I「私は神のご命令を侮ることはできません」「私はむなしい兵役についていて誤っていたと思いますが」と前置きして彼が過去27年間にわたり7回も戦争に加わり、立派に兵役を務めてきたこと、その間ずっと真の神を礼拝してきたことを説明し・・・
M 神々に犠牲をささげれば報奨金を受けられるぞ
I 虚位する。
M ユリウスを死刑と宣告し、斬首。

解釈>篤信のキリスト教徒であったユリウスは兵士としてずっと戦ってきたが、むなしく感じている。

(2)アルル教会会議314年8月の示す平和主義からの重大な転回
 コンスタンティヌス帝治世以前に教会側で信徒の兵士がとるべき態度について何かを取り決めたという記録は残っていない。ところがミラノ勅令の翌年314年アルル教会会議の第三決議で次のようなことが決められた。
De his qui arma proiciunt in pace, placuit abstineri eos a communione.
直訳すれば「平時に武器を捨てるものたちに関しては、彼らが交わりからとおざけられるべきことを定めた。」となる。解釈は下のように諸説ある。
 Cadouxはarma proicere=他人に武器を投げる、in pace=武器を用いる必要がないときと取って、剣戦技への参加を禁止したと考える。
 Baintonは、「この一文の意味は、キリスト者は警察力として働くことだけが職務とされるような平時には、武器を捨ててはならない。しかし、戦時には軍籍を捨てても良いということである。」と主張する。
 C.J.Hefele,A.Harnack「国家と教会との間に平和が支配しているので、キリスト教徒の兵士は義務を果たすべきであり、脱走兵は教会から処罰される」と考える。ハルナックの解釈「教会はアルルにおいて、信仰ゆえに脱走するという、これまでしばしばなされたキリスト教徒の兵士の行為を非難したのみならず、恐ろしい破門の罰を科したのである。」
  「いずれにせよ、このアルル教会会議の決議は少なくとも兵役がキリスト教徒にとって当然なものと受け取っていることは確かであ」る。(木村)「軍務を放棄するキリスト者に破門を宣しているのは、その解釈に問題があるとしても、キリスト教の平和主義の大きな転回を認めることができ、義戦−聖戦の道に歩みだしたことになる」(秀村「ローマ皇帝支配の意識構造」「岩波講座世界歴史3」所収)

(3)アンブロシウス、アウグスティヌスの「正しい戦争」
 アウグスティヌスは、ドナトゥス主義との論争において、正しい戦争についての理論を語る。ドナトゥス派の一部キルクムケリオーネスが「この世」との戦いと称して暴徒と化して略奪行為を働いていた。アウグスティヌスは彼らに対する戦争は正当化されるべきだと考えた。
 キルクムケリオーネスというのは、340年頃ドナトゥス主義者から現れた集団で、彼らは暴力的手段に訴えてでも帝国と結んでこの世的になった教会と戦おうとした。彼らはほとんど北アフリカヌミディア人とモーリタニア人であった。カルタゴは、経済構造からいうと、ヌミディアモーリタニアから富を収奪している立場にあった。アウグスティヌスはキルクムケリオーネスの経済的社会的要因には気づいていないようである。キルクムケリオーネスは熱狂主義に陥るほどに宗教的であり、もはや昔のような迫害が望めない時代にあっては、信仰をゆがめている世的な人々との戦いをし、その戦いに死んだ人々を殉教者とみなすようになる。時に殉教願望が高じて集団自殺をするものまで出てきた(ゴンサレスp172)。
 ただし、アウグスティヌスによれば正しい戦争には条件があるとした。第一に、戦争の目的が正当でなければならない。領土的野心が目的ならば、それは正義の戦争ではない。第二に、正しい戦争は合法的権力によって実施されなければならない。個人による復讐を禁じる。第三に、戦争において暴力を避けることはできないとしても、愛の動機が中心でなければならない。 

*ちなみに、ルターも正しい戦争について類似の条件付けを行なっている。(「現世の主権について」、「軍人もまた救われうるか」)しかし、これらの条件をほんとうに満たす戦争など現実にはあるだろうか?