苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

古代教会史ノート11 コンスタンティヌス大帝の回心

1. ディオクレティアヌス帝による最後の大迫害とコンスタンティヌス

 まず、めまぐるしく東西の正帝と副帝が交代する3世紀末から4世紀前半の政治的動向を説明する。皇帝デキウス帝とウァレリアヌス帝の迫害の後、教会は比較的平穏な時代を長く過ごす。しかし、3世紀最初にディオクレティアヌス帝による最大の迫害が起こる。ディオクレティアヌスは四人の皇帝を立てて広大なローマ帝国を統治する。東西にアウグストゥスを名乗る正帝と、カエサルを名乗る副帝をそれぞれに立てて。
 東:ディオクレティアヌス正帝(284-305)とガレリウス副帝
 西:マクシミアヌス正帝(285-305)とコンスタンティウス・クロルス副帝

 ガレリウスはキリスト教徒を迫害する。発端は軍隊のキリスト教徒が所属することについて。多くの教会指導者はキリスト教徒は兵士になるべきでないと言っていたが、実際には軍隊に多くのキリスト教徒がおり教会には統一見解がなかった。295年、多くのキリスト教徒が軍役を拒否したり軍隊を抜けようとして処刑される。ガレリウスは軍隊の士気にかかわると考えて、ディオクレティアヌス帝に進言しキリスト教徒を軍隊から追放させる。
 さらに303年の勅令では帝国の公職からキリスト教徒を追放し、会堂破壊と聖なる書物の焼却を命じる。さらに、すべてのキリスト教徒に神々に犠牲をささげよという勅令が出る。すなわちキリスト教の棄教を命じたのである。この迫害によって、棄教しないものは拷問の末、処刑された。

305年東では、ディオクレティアヌスは退位し、ガレリウスが正帝になる。西でもマクシミアヌスは退位し、コンスタンティウス・クロルスが正帝になる。
 東:ガレリウス正帝(292-311)
 西:コンスタンティウス・クロルス正帝(292-306)

 ガレリウスが正帝となった東ではキリスト教迫害が激しく続くが、西では迫害はほとんどなかった。ガレリウスのもとで人質になっていたコンスタンティヌスは逃亡して、父コンスタンティウス・クロルスのもとに戻って合流し、父の死後は彼が正帝となる。
 東:ガレリウス正帝(292-311)
 西:コンスタンティヌス正帝(306-337)

 しかし、ガレリウスは大病を患い、これを神罰と思って311年4月30日政策を変更し、「彼らが社会秩序を乱したりしない限り、われわれの赦免を彼らにも広げ、彼らがキリスト教徒であることを容認し、彼らが再び集会を開くことを許可する」と勅令をだした。この勅令交付の5日後、ガレリウスは死ぬ。このとき、リキニウス、マクシミヌス・ダイア、コンスタンティヌス、マクセンティウスの四人が割拠する。ダイアがガレリウスの教会迫害政策を継続。

 東:リキニウス帝(307-323)  マクシミアヌス・ダイア帝(305-313)
 西:コンスタンティヌス帝(306-337)、 マクセンティウス帝(306-312)

 コンスタンティヌスは、ローマのマクセンティウスとミルウィウス橋で勝利を得た。エウセビウスによれば、このとき決戦の前夜に空にキリスト(XPI�遙圍廊堯砲鮠歡Г垢襭悗硲个料箸濆腓錣擦晋犬ⅳ修譟◆屬海譴砲茲辰鴇〕琛鮗鈇瓩襪任△蹐Α廚箸いΨ室┐鮗擷韻燭箸いΑ◀海譴魴慨絜砲弔韻独爐和臂〕琛鮗鈇瓩拭H爐呂海譴派塲圓梁斥杰世鮗里討討燭世舛鵬鷽瓦靴燭錣韻任呂覆い❶�
 勝利を得るとコンスタンティヌスはミラノでリキニウスと会合し同盟を結んだ。その合意内容に、「キリスト教徒の迫害をやめ、教会、墓地、その他の財産を返還する」といういわゆるミラノ勅令が含まれた。313年。ベッテンソンpp40−41。
しかし、マクシミヌス・ダイアは迫害を続ける。やがてコンスタンティヌスが唯一の皇帝になると、迫害はやむ。
 コンスタンティヌス帝は、教会財産の返還、教役者への補助金、教役者の責任免除、占い者の禁止(319年テオドシウス法典9:16:1)、国家による日曜休日の承認(321年ユスティニアヌス法典3:12:3)など、キリスト教会に対して有利な政策をとった。ベッテンソンpp40-44

 フスト・ゴンサレスは言う「これが果たして勝利であったのか、それとも、新しい、そしておそらくもっとも大きな困難の始まりであったのか」「どちらであるにしても、コンスタンティヌスの回心がキリスト教に計り知れない結果をもたらしたことは疑いの余地がない。」教会はそれまで十字架にかかって死んだ大工を主をと仰いできた。しかし、今や、教会は帝国の栄誉と権力に取り囲まれることになる。そのとき、どんなことが起こってくるのか?

2. コンスタンティヌス帝の回心と統治


(1)政治的動向
 東:リキニウス  と  マクシミヌス・ダイア。
 西:コンスタンティヌス
やがて、リキニウスはマクシミヌス・ダイアを滅ぼす。それで、皇帝の名は次のように変化。
 東:リキニウス
 西:コンスタンティヌス

 やがて、コンススタンティヌス暗殺計画が発覚するも、リキニウスは犯人引渡しを拒否して、宣戦布告。そして両者は激突。コンスタンティヌスはリキニウスを滅ぼし、帝国唯一の皇帝となる。323年。以後337年まで君臨する。

(2)コンスタンティノポリス建設
a.ビザンティウム戦略的価値
 ヨーロッパの東端であり、小アジアとの接点であるゆえに、ヨーロッパとアジアの帝国領の両方を抑えることができる。また、ボスポラス海峡を支配できる。ライン川沿いのゲルマン諸族も脅威であったから、アジア側に都を移すのも問題だった。そこでビザンティウムが適地だった。

b.コンスタンティノポリス建築のために、帝国の諸都市の神殿に安置された神々を取り外してきて、競技場や公共浴場や広場などの飾りとした。古代の神々は装飾品とされて、結果、各地の異教は弱められた。古代最高の彫刻家フィディアスの作品、エジプトのアポロ像も運んできて、首を切って、なんとコンスタンティヌスの顔に付け替えて市の中心に飾られた。
 また人口増加のために、コンスタンティノポリス市民は税や兵役免除という特権を与えたので当然、人口は増加した。(織田信長楽市楽座に似ている。)

(3)コンスタンティヌス帝の回心とは?
 コンスタンティヌス帝の回心が本物であったかどうかについて両極端の議論がある。単なる政治的パフォーマンスであったという説と、ほんとうにすばらしい回心であったという説と。どちらもほんとうではないだろう。  
a.政治的パフォーマンスと見られる印
 彼は生涯の最後まで自分を「司教の中の司教」とみなして宗教生活については自由にする権利を確保し、教会に対して干渉した。それどころか、回心の後も繰り返しキリスト教徒が参加しない異教の儀式にも参列しつづけた。コンスタンティヌスキリスト教に好意的であり、キリストの力を信じると公言したが、彼は死の直前まで洗礼は受けなかった。彼は生涯、異教の最高司祭としての働きを続けた。死後、三人の息子たちは元老院コンスタンティヌスを神と宣言する動議を提出したとき、反対しなかった。

b.コンスタンティヌスの回心はほんとうだと見られる印
 彼の回心のタイミング――ローマ攻略寸前――は戦略上は不都合なときだった。すなわちローマは異教の伝統の中心地であり、その伝統の担い手はローマの古い貴族であり、彼らがマクセンティウスに不満を抱いていた。彼らを自分の味方に取り込むことをねらうとすれば、キリスト教に回心することは不都合ではあった。軍隊の中でキリスト教徒の占める割合は西方では低かった。キリスト教徒は貧乏だったので、コンスタンティヌスを経済的に支持する力もなかった。それにもかかわらず、彼はキリストを信奉することにしたことを考えれば、その回心が単なる政治的パフォーマンスとは思えず、本物だといわねばならないだろう。

結論 コンスタンティヌスはほんとうにキリストを信じていたのであろう。彼がキリスト教に好意的な法令を出し、教会堂を建てたのは、キリスト教徒の好意を得るためではなく、キリスト教徒の神の好意を得るためだった。
 けれども、彼は純粋な意味で回心したのでもなく、異教と混じっていた。ローマ皇帝の伝統である「最高司祭」の称号を受けたり、あらゆる異教の儀式にも参加したりしながら、自分を勝利に導いた神を裏切っているつもりはなかった。
 324年、週の初めの日、すべてのローマ軍兵士は至高の神を礼拝しなければならないという勅令が出る。これはキリスト教徒の復活日であり、不敗の太陽神礼拝の日でもあった。
325年 第一回公会議がニカイアで開かれる。