苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

古代教会史ノート10 正典・信条の確立

 ヘレニズム世界への宣教の進展にともなう異端の出現に対して、教会は信仰の客観的根拠としての正典の確立と、その解釈としての信条作成をもって対処した。

4.正典の確立

 異端のマルキオンが140年頃、彼の正典を作った。正統な教会としては真の正典がなんであるかを知る必要があった。この必要はすでに教会が始めていた正典確定を早めることになった。正典とかカノーンすなわち物差しを意味する。
(1) 旧約正典
a.基本資料
 AD37、エルサレムの祭司の家のヨセフスの証言『アピオン駁論』1:8
「われわれは互いにくいちがったり矛盾したりする万巻の書を抱えているのではない。ただ、あらゆる時代についての記録を有する22巻の書を有している。それらは、まさしく神聖なものと信じられている。
 そのうち5巻はモーセによるもので、彼の律法と彼の死にいたるまでの人間の伝承を含んでいる。この期間は三千年に近い。モーセの死後、クセルクセスの次に即位したペルシャ王アルタ・クセルクセスの統治の時までに起きたことがらを13巻の書に書き残した。そして残りの4巻の書は神にささげる賛歌と人間生活のありかたに関する考察を含む。
 このアルタ・クセルクセス以後、われらの時代までのすべてのことも記録されてきた。しかし、それらの規則には上に挙げた書と同等の価値を有するとは認められない。なぜなら、正しき預言者の継承は終焉していたからである。
 われわれがいかなる信仰をわれわれが有するこれらの書に置いているかは、我々の取り扱いによって明らかである。すなわち、今日にいたるまで、長い年月が経ってきているにもかかわらず、誰一人これらの書に加えよう、省こう、改変せんとしたものはいなかった。」

b.証言者フラウィウス・ヨセフス(Flavius Josephus, 紀元35年?-紀元100年)
 外典を認めたいリベラルやカトリックはヨセフスの証言を、一般民衆の考えだとか個人的なものなどといって貶めようとするが、ナンセンスである。ヨセフスは祭司の家の大学者、ユダヤ人である。また議論の文脈はアピオンへの駁論という公的なものであるから、個人的見解ではありえない。ヨセフスは最高の資格をもつ証言者である。
 またリベラルは旧約のある書(歴代、エズラ、ネヘミヤ、エステル、ダニエル、伝道)はアルタ・クセルクセス後だと推論して、ヨセフスの見解を否定するが、それは自然主義的前提に立つ正典発達説によるものにすぎない。
 
c.旧約正典の巻数
 ヨセフスのいう「22巻」の意味するものは、今日でいう39巻の旧約聖書のことである。
五巻 :1創世記、2出、3レビ、4民、5申
十三巻:6ヨシュア、7士師・ルツ、8サムエル、9列王(上下)、10イザヤ、11エレミヤ・哀歌、
    12エゼキエル、13十二小預言書、14ヨブ、15エステル、16ダニエル、
    17エズラ・ネヘミヤ、18歴代(上下)
四巻 :19賛歌(詩篇)、20箴言、21伝道、22雅歌
 以上、5+13+4=22巻である。

d.旧約正典各書の権威と保存
 正典に含まれる各書は、長い年月を経て進化論的に徐々に権威を得たのではなく、最初から権威持つものとして扱われた。ユダヤ人たちは写本するたびに、文字数を確認するまでしてこれを保存した。それぞれの書が神の書として信じたからである。

e.旧約正典完結の年代
 ヘブライ語聖書は紀元後1世紀の終わり90年頃にパレスチナのヤムニアで開かれたラビの会議において公認されたという現代のグノーシス主義であるニューエイジ運動を背景とした俗説があるが、事実は異なる。旧約正典は、はるか昔、アルタ・クセルクセスの時代(465-424BC)に完成した。マラキはこの最後の預言者であると一般に理解されていた。第一マカベヤ9:27「かくてイスラエルに、預言者の彼らに現れずなりしときよりこのかた、いまだなかりしほどの大いなる艱難起これり。」同15:41「しかして、ユダヤびとらと祭司らとは、まことなる預言者の怒るまで、いつまでも、シモンが彼らの指導者たり、大祭司たることを定めたり。」と言われている通りである。マラキ後、バプテスマのヨハネまでおよそ400年間預言者は出現しない。ヤムニア会議は、この事実を確認したにすぎない。今日もユダヤ教ではプロテスタントの旧約39巻を正典として持つ。

f.旧約正典の結集
 宗教改革時代の大ラビであるエリヤス・レビタによると、エズラと120人の助手たち(いわゆるthe great synagogue)によるとされ、ルター、カルヴァンもこの見解を受け入れ、歴史的状況からみても妥当な見解。紀元前5世紀。ただし結集したから権威が生じたのではなく、権威ある書を結集したのである。

g.七十人訳の問題
 アレクサンドリアユダヤ人学者フィロンは著書で旧約聖書にしばしば言及しているが、外典への言及はない。彼は七十人訳を使用していたにもかかわらず、外典からは何ひとつ引用しない。旧約聖書の一部とは考えられていなかったか、あるいは当時の七十人訳には外典は含まれていなかったと推測される。今日七十人訳聖書と呼ばれる書には正典にないものが含まれている。今日の七十人訳はすべてキリスト教的な者で、マリアの賛歌が含まれる。これが古代のアレクサンドリアのものと同じとはいえない。

h.外典問題
いわゆる外典(新共同訳聖書でいう「旧約続編」)は初めの三世紀間、教父たちユスティノス、テルトゥリアヌス、オリゲネス、ヒエロニムスらによって一致して否認されていた。4世紀半ばから外典が重んじられたが、ヒエロニムスは言う「それゆえユディト書、トビト書、マカバイ書を読むからといって、教会はそれらの書を正典として受け入れたわけではない。この知恵の書と集会書が読まれるのも人々の訓育のためであって、宗教の教理を証明すべきものとしてではない。」
 外典12書が正典とされたのは、1545-63年の反プロテスタント会議であるトレント会議の第四会議のことにすぎない。

結論
ヘブライ語聖書がキリスト教正典に含まれることは、最初から教会は一致していた。福音書や書簡は<旧約は新約の預言、新約は旧約の成就であり、旧約は新約の影であり新約は旧約の本体である>とあらゆるところで語っている。マルキオンが偏愛するパウロ書簡やルカ福音書においてさえそうである。(ルカ 24:44、ローマ3:21)
 主イエス旧約聖書を神の言葉として引用しており、かつ、外典からの引用は一度もなさっていない。また、旧約聖書はあいまいな思想としてではなく、一点一画までも神のことばであると主は主張された。イエスユダヤ人たちと議論をするとき、共通して立った神の権威は旧約聖書であった。グノーシス主義、マルキオンは旧約聖書を否定するが、教会は創世記からマラキ書にいたる旧約聖書を初めから神のことばとしての権威あるものとして受け入れてきた。

(2) 新約正典
a.使徒時代・使徒後時代の新約聖書の位置。
1テモテ5:18 「聖書に『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない』、また『働き手が報酬を受けることは当然である』と言われているからです。」とある。前半の引用は申命記25:4から、後半の引用はルカ10:7からのもの。申命記と並べてルカ伝からの引用も『聖書に・・・といわれている』と言っている。つまり、申命記とルカ伝を同等の権威あるものとして扱っている。

 また、2ペテロ3:15,16「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」とある。ペテロはパウロの手紙を旧約聖書のことばと同等に権威あるものとして扱い、パウロの手紙を曲解すれば滅びを招くと言っているのである。また、パウロはさらに新約のみことばの務めは、旧約のモーセの務めに勝るとさえ言う(2コリント3:6-11)。
 つまり、新約聖書記者の意見では、彼らの福音は神の啓示であるみことばを聖霊に感じてのべ伝えたので、その内容ばかりか、ことばそのものまで聖霊によるものであった。2コリント2:13 「この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」
 だからこそ、彼らの命令には権威があり(Ⅰテサロニケ4:2)、彼らの文書はその貯蔵庫なのであるⅡテサロニケ2:15「 そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」もしその手紙に聞き従わない者があれば彼と絶交せよと命令し(2テサロニケ3:4)、彼が語ったことを主の命令だと認めることをもって、その人が御霊に属しているかどうかの判定の基準とせよという(1コリント14:37)。

 使徒後時代も同じ。ポリュカルポスはAD115「聖なる書の中に・・・これらの書にいわれたように、『怒るとも罪を犯すな。怒ったまま日を暮してはならない。』」と言って、エペソ書を聖書として扱っている。またクレメンス第二書2:4では、イザヤ書の引用のあと「しかしもうひとつの聖書は『わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである』とある」といって、イザヤ書とマタイ福音書9:13を同等に扱っている。
 「初代教会においては新約聖書は旧約ほど権威あるとは考えられず、長い年月の後に徐々に地位を高くした」というリベラルな見解には根拠がなく、新約聖書に属する書は最初から高い地位を得ていた。これは旧約の各書の場合と同じ。初期キリスト教は旧約に対抗して新約聖書を作ったのではない。聖書は創世記以来、一つ一つの文書が追加され全部で66巻となった。これは古代教会は、聖書をさして『律法と福音』と呼んだことと符合する。黙示録で完結したといえるのは、その内容からしても未来のことを記しているからである。

b.新約正典成立と普及の順序
  いつ正典が完結したかといえば、黙示録の最後の文字が書き終わったとき。結集・普及には時間がかかる。ほとんどの教会が27巻を手に入れたのはエイレナイオス(130-200)以降である。
 最古の新約聖書目録は起源170年頃のもの。1740年、イタリアでL.A.Muratriによって公表された「ムラトリ断片」。断片では、はじめのところが切り取られているが、ルカ福音書を第三福音書を呼んでいるので、マタイ、マルコとあったのだろう。次に、ヨハネ伝、使徒パウロの9つの手紙(ローマからテサロニケ1,2)と4つの個人宛ての手紙(ピレモン、テトス、テモテ1,2)、ユダの手紙、ヨハネの二つの手紙、そしてヨハネ黙示録とペテロ黙示録。ヘルマスの羊飼いは読まれる価値があるが、正典には含まれないとされる。つまり、ヘブル書、ヤコブ書が欠け、ペテロ黙示録がよけいなだけ。
 オリゲネス(185-254)は四福音書使徒、十三のパウロ書簡、ペテロ第一、ヨハネ第一、黙示録をすべての人に正典として認められたものとしてあげている。ヘブル、ペテロ第二、ヨハネ第二、第三、ヤコブ、ユダを一部の人に反対されているという。
 エウセビオス(260-340)は、ヤコブ、ユダ、ペテロ第二、ヨハネ第二、第三を除く今日の新約聖書のすべてを正典としてあまねく承認されたものだという。
 367年に回覧されたアタナシオスの第39復活祭書簡では、今日と同じ27の新約聖書を正典的として確定している。
「新約諸文書が教会にとって権威あるものとなったのは、正典の目録に公式に収録されたからではない。そうでなくて、教会はつとに新約諸文書に内在する価値と、一般的な使徒的権威を承認し、これを神の霊感によるものとして承認したからこそ、教会の正典目録に収録したのである。」(FFブルース『新約聖書は信頼できるか』pp40,41)
 正典目録を作ったのは何らかの会議の決定によったのでなく、各地の教会が次第に共通の見解を持つに至ったのを会議が追認・確認したというのが実態。新約聖書正典に含まれる中心的文書については、きわめて早い時期からほとんどの教会で一致していた。聖霊の導きであるというほかない。
 最終的に27巻が確定公認されたのはカルタゴ会議(397年)であり、ニューエイジの人々(たとえばシャーリー・マクレーン)はこの会議やニカヤ会議をとりあげて、イエスグノーシス主義者だったが、イエスからずっと後の時代になってから教会の権威主義者がグノーシス文書を意図的に排斥したのだと主張するが、それは事実に反する。事実は、カルタゴ会議が新約正典を決定したり、ニカヤ会議がイエスを神だと言い出したのでなく、すでにごく初期から広く信じられていることをただ確認したのである。
 
5.信条と職制

(1)信条 Bettenson p51
 使徒信条と呼ばれるが十二使徒がまとめたものではない。使徒的な信条という意味である。使徒信条は150年頃の古ローマ信条がもとのもの。洗礼の時に用いられた。この背景にはグノーシス主義との区別の必要があった。
 父なる神が天地の造り主であることは:グノーシス主義、マルキオンとの区別。
 御子がおとめマリアから生まれた。これも同じ。
 ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け:歴史上の事実。仮現説と区別。
 三日目に死人のうちよりよみがえり、からだのよみがえり:同上

(2)職制 Bettenson pp107-108
 迫害の中にあって、教会は職制を固めていく。誰がみことばの教師であるかということ。しかも、各個教会主義ではなく、一つの公同の教会として形成されていくのである。それは原初的には使徒の働き15章に見えたエルサレム会議の姿の延長線上にある姿である。
 <資料> 殉教したアンテオケの主教イグナティウス「スミルナ人への手紙」112年頃
  職制と聖礼典に関する文章で ベッテンソン史料p108
 「キリスト・イエスのおられるところにはどこにでも公同教会があるように、監督のあらわれるところに人々をおらせなさい。監督のいないところでバプテスマをほどこしたり、愛餐を執り行うことは許されない。しかし、あなたがたの行なうところがすべて健全で有効なものになるようにと、監督が承認する事柄はなんでも、神に喜ばれる。」

*今日でも正典・信条・職制の一致ということが、客観的な意味での教会一致の基本。各自教団・教派の一致の基本であることをわきまえられたい。