苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「福音」ということばの乱用(2)

 先の「福音の広がり」に関する投稿は、爆弾が破裂して、大事な友人たちの心を傷つけたかもしれません。こういうところ、ぼくは昔から思慮が足りないのです。すみません。しかし、なにより大事なことだと思うので、もう少し説明します。最後に契約神学についても、少々。

 時々「十字架と復活の福音ばかりじゃだめだ」というふうなことばを聞くことがあります。そういう思いから、「福音の豊かさとか広がり」の研究が進められるなら、それは違うと思います。 逆に、福音の広がりの研究が、福音の核心である受肉と十字架と復活を、ますます鮮やかにする研究となるように、と願っています。
 この間、カナダに住む友人が翻訳した草稿を見せてくれたのですが、J.I.パッカーの「贖罪論再考」の末尾にこんなことを言っています。ルターの義認論に対して批判的なNPP(New Perspective of Paul)を意識しての文章でしょう。まだ、草稿段階ですが、出版されるならば多くの方に読んで欲しいので、少々引用しておきます。

(以下引用)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 近年、聖書神学および現代行われている聖書正典釈義は目覚ましい進歩を遂げ、イスラエル、またイスラエルを通して全世界を祝福するための神のご計画がキリストにあって、またキリストを通してどのようにクライマックスに達したのかに関する聖書の物語全体の把握・理解が、従来に増して正確に行われるようになりました。
 しかし、新約聖書に収められている各々の書が、他にどのような役割を果たしうるとしても、いずれにせよルターが発した以下の重要な問いを考慮しているという点を、どのように否定しうるのか私にはわかりません。
「弱く邪悪で罪深い者が、どうしたら恵み深い神を見出すことができようか?」(ルター)
また、本当のキリスト教は、その恵み深い神を発見した時にこそ、始まるということも否定できないのです。
 上記に述べた現代の聖書神学や正典釈義における進展が、大きな物語で私たちの視野を埋め、一人一人個人としてあの疑問の答えを探求することから私たちの注意をそらせばそらす程、新たな学問的進展は福音に対する私たちの理解と感謝を助けると同時に妨げるものなのです。
 全ての信仰者が他の全ての信仰者と並んでP.P.ブリスの単純なことばを歌う時、教会は最も健全であり、これからも健全であることでしょう。ブリスの詩は(福音の)全てを物語っています。

恥辱とあざけりをその身に負い
私の代わりに、御子は断罪された
ご自分の血により、私の赦しを
ハレルヤ! 何という救い主であろうか!
(以上引用)〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 富士の頂を鮮やかに浮かび上がらせるための、裾野の広がりでありますように。

私としては、創造の契約(創世記1,2章)、堕落後のキリスト預言(創世記3章)、ノアの保持の契約(創世記9章)、アブラハムの創造の契約(創世記17章)、シナイの律法の契約、ダビデへの王国の契約(2サムエル7章)という旧約の諸契約を集約して成就したキリスト契約(最後の晩餐)という大きな捉え方(契約神学)が、そのために、もっとも有効であろうと思っています。
こうした捉え方は、古代のエイレナイオスが『使徒の使信の解説』すでにしています。