1. エルサレム教会の誕生
(1)聖霊によって(使徒1章)
新約の時代の新しさとはなにか?旧約の時代からの一貫性と新しさの両方を把握することが大事である。
旧約からの一貫性・・・①創造主を崇める、②贖罪の信仰(影)、③みことばの重視
新約の新しさ・・・・・①受肉・贖罪の完成(本体の出現)②御霊の普遍的注ぎ③世界宣教開始
注がれた御霊は子とする御霊であり、宣教の御霊だった。
「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土。および地の果てにまで。」
(2)エルサレム教会の営み---教会の必要十分な「しるしmarks」とは?
ペンテコステに誕生したエルサレム教会の営みを確認しておくことは大切なこと。教会の刷新や改革が志されるとき、ここを原点とすることになるからである。
「ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、『この曲がった時代から救われなさい。』と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。」(使徒 2:40-43)
<適用>
ところで時代は1500年ほどくだるが、宗教改革において、「真の教会のしるし」ということが課題となった。ローマ教会から結果的にプロテスタント教会という別の群れができてしまった時に、それは「分派の罪」を犯したのではないことを確認しなければならなかったからである。ローマ教会が真の教会でなくなったから、真の教会の復興のためにプロテスタント教会がうまれなければならなかったということを立証しなければならなかった。
改革者たちがそこで見いだした真の教会として最少限備えていなければならないしるしとは二つ。すなわち、「福音が純粋に教えられ、聖礼典が福音に従って正しく執行されている」ということである(アウグスブルク信仰告白7、第一スイス信条21)。そして、正しい説教と聖礼典が行われるために、正しい戒規の執行がなされなければならないということになる(スコットランド信条18、ベルギー信条29)。そこで福音の説教、聖礼典、戒規ということが三つのしるしと呼ばれる場合もあるが、肝心なことは二つで福音の説教と聖礼典であり、これらが正しくなされるための手段として戒規がある。戒規とは、信徒が礼拝、格別、聖礼典において祝福を得られるためになされる。もし罪を赦されないままで聖餐にあずかるならば、その人はそれによって主のからだと血に対して罪を犯し、かえって呪いを受けることになってしまうから(1コリント11:27−32)。
このように宗教改革において、この二つないし三つのしるしを備えていないならば、教会は真の教会ではないということになった。中世ローマ教会では宗教改革者が再発見した福音の説教はなされていなかった。聖書は開かれず、会衆にはまるでちんぷんかんぷんのラテン語で礼拝は進められていた。さらに聖書が翻訳されることも、一般信徒に読まれることも禁じられていた。人々は魔術的なものとしてミサのパンに与かっていた。こういうわけで、プロテスタントとしては真の教会のしるしを当時のローマ教会は備えていないのだから、我々が新たに群れを造ったのは真の教会を復興のためであり、分派の罪にはあたらないと自己確認した。改革者の功績の一つは、こうして教会の中心を明示したことといえよう。我々も教会が何を見失ってはいけないかということを、教会のしるし論から知るべきである。こういうわけで宗教改革の伝統を重視する教会は、これら二点ないし三点に集中して教会形成をしようとしてきた。
しかし、よく考えてみれば福音の説教、聖礼典というのは、それが偽りの教会ではなく真の教会であるためのいわば必要最少限のしるしにすぎない。これらをなしていれば、たしかに偽教会ではないであろうが、それだけで十分だとはいえるだろうか。宗教改革の神学と、そのまとめとしての17世紀の正統主義神学の限界はこのあたりにあろう。17世紀末になるとドイツではルター派正統主義が宗教的生命に枯渇したことに対する反動として敬虔主義運動が起こる。敬虔主義運動は新しい教派を造りはしなかった。彼らは、真に改心した信徒の集会を教会内に形成し、交わりと祈りをした。そうして教義よりも敬虔な実践が重んじた。また、敬虔主義の指導者の一人フランケによってルター派として最初の海外伝道も始められる。
海外宣教については、当時プロテスタント正統主義の教会はずっとローマ教会に遅れをとっていた。ローマ教会はヨーロッパでの失地回復の分を取り戻そうとして世界宣教へと乗り出していき、そのなかで日本にもバテレンたちが訪れたが、プロテスタント教会は世界宣教には活躍しなかった。プロテスタント教会が本格的に世界宣教に乗り出すのは、18世紀の末から19世紀になってから。夜は靴修理、昼は学校に学んで説教に励んでいた信徒伝道者ウィリアム・ケアリが未伝道伝道を始めようと提唱したときに、教会の指導者たちはこれをあざ笑った。しかしケアリの提唱に立ち上がった人々は世界宣教をスタートし、ケアリは最初のインド宣教師となる。信徒伝道運動が近代の世界宣教のもとである。
キリストがこの時代の教会にたくされた最大の任務はこの大宣教命令である。これはマタイ28:18−20、(マルコ16:15)、ルカ24:46−47、使徒1:7、8に記録されている。復活されたキリストが地上を去って父なる神の右にのぼられる直前に語られた最重要の命令が、この大宣教命令である。
真の教会のしるしというばあいには、消極的にほんものの教会は最少限何をそなえていないと教会とはいえないかということが問われたが、我々が目指すのは最少限の教会ではなく、十分に主の負託に答えたいということではないか。福音を宣べ伝えるということならば、純粋な福音の説教という教会のしるしの一つに含まれているではないかと言われるかもしれないが、実は違う。聖書では、宣教(伝道)と教えとは区別されている。ディダケーとは教えであって、イエス様をすでに受け入れた教会内の人々に対して主の弟子として歩む道を教えることである。他方ケーリュグマとは、まだ主の福音を知らない人々すなわち教会外の人々に宣べ伝えること(1コリ2:4、ロマ16:25、マタイ11:1、マルコ1:38など)。だから、福音は口に関連して語られるのではなく、足に関連して語られる。 「良いこのとの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱなことでしょう。」(ローマ10:15)
「足には平和の福音の備えをはきなさい。」(エペソ6:15)
教会堂の説教壇で信者を相手に教えているディダケーだけで、伝道をしたことには実はならない。未信者に福音の宣べ伝えてこそケーリュグマを伝えたと言える。原点に立ち返って、そもそも初代キリスト教会の姿はどうだったか。使徒2:38−42を開こう。彼らは①伝道をし、②バプテスマを授け、③使徒たちの教えを堅く守り、④交わりをし、⑤パンを裂き(聖餐式)、⑥祈りをしていた。つまり、必要十分なしるしとは<伝道(ケーリュグマ)、教え(ディダケー)の実践、聖礼典、交わり、祈り>という5つのしるしである。16世紀の宗教改革は真の教会の最少限としてのディダケーと聖礼典の回復をしたのだが、18−19世紀敬虔主義運動は、そこに欠けていた伝道・みことばの実践・交わり・祈りを回復したのである。
私たちとしては、宗教改革者たちに正しい礼拝という教会の必要最小限を学び、かつ、敬虔主義運動に伝道・みことばの実践・交わり・祈りを学んで、必要十分なしるしをもって主にお仕えする教会を建てあげていきたい。
2.教会の組織化
(1)執事の選任(使徒6:1−)
ヘレニスタイ(ギリシャ語を話すユダヤ人)とヘブライオイが共存していた。使徒たちはヘブライオイであったが、両者の問題が生じてきたときに、ヘレニスタイから執事を選出したのだった。バランスをとろうとしたのであろう。このあと、ヘレニスタイの執事ステパノが殉教する。ヘレニスタイは異邦人伝道のための掛け橋となっていくことが、ここに示唆されている。伝道者ピリポもまたヘレニスタイである。ヘブライ語しか話さないような人々は、実際的に異邦人伝道をすることは不可能だった。しかも、彼らは信徒である。
(2)使徒15章エルサレム会議(使徒15章)
異邦人教会であるアンテオケ教会における異邦人キリスト者にとっての割礼をはじめとする律法遵守義務うんぬんという教理的問題は、アンテオケという一地域教会で解決できる、あるいは解決すべき種類の問題ではないとされて、エルサレム会議に提出され検討された。このことを見るならば、すでに当時の初代キリスト教会にあって、一地域教会にすべての教会政治上の権威が属するという単立主義的な教会運営は取られていなかった。地域教会の上に上級会議が存在していたことがわかる。この一点だけ確認しておきたい。
(3)牧会書簡
監督、長老、執事といった職名が出てくるので、教会の組織化が進んでいることに気づく。監督エピスコポスと長老プレスビュテロスは同義。前者はギリシャ風の呼び名。後者はユダヤ風の呼び名で内容的には同義である。
今日のリベラルの見解では一般に、これらの書簡は2世紀前半のものであり、パウロの真筆ではないとされる 。そのような主張の根拠は、教会組織の確立、異端への警戒、正統的な教えの用語などの強調は、2世紀前半になってはじめて教会が直面した問題であろうというあいまいな推測にすぎない。リベラルな聖書学者たちは、一般に歴史家が史料にむかうよりはるかに聖書に対して懐疑的である。
F.F.ブルースの見解は、これらの牧会書簡は紀元63−63年に使徒パウロによってマケドニヤで書かれたものであるということである 。95年に書かれたクレメンスの「コリントのキリスト者への手紙Ⅰ」にはテトス書、テモテ書Ⅰの引用がある事実は 、著作年代を2世紀以降に置くリベラル派の見解を打ち砕くのに十分である。
内容が教会組織の確立、正統的な教えの強調は、初代教会発足30年から40年も経てば起こってくるのは、むしろ当然のことと見るべきである。そもそもエルサレム教会で初日に三千人ほどが洗礼を受け、日々新しく救われる人々が加えられたことを考えれば、組織が確立していなければ、到底これを治めることなどできはしない。教会がわずか50人になっても、そこには組織化が必要である。しかも、66年ころになれば福音はすでに地中海世界に広がっており、各地に集会が生まれていたのであるから、組織化は必然であった。
また、異端に警戒し、正統的な教えが強調されるのも当然のことである。たとえば、現在、中国家の教会が直面している深刻な問題の一つは異端問題である。中国古来の諸宗教と混じってさまざまな異端が生じており、危急の課題は正統的な神学教育なのである。家の教会の急激な成長がはじまって、わずか30年内外であると思われる。このことを鑑みても、2世紀半ばまで異端問題に教会が困ったはずがないなどというリベラルな見解は、教会の歴史の現実をわきまえない推測である。リベラルの誤謬論には、19世紀前半のテュービンゲン学派のヘーゲル弁証法を前提とした古代キリスト教成立の枠が実はまだ影響していて、新約聖書の性質を遅らせようとする傾向が残っているのである。
組織化の目的は、正しい教理をいかに継承し、伝えるかということののために必須のことであった。正しい教理を伝える資格ある者の認定が必要となったのである。
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ4:11−15)
3.初代エルサレム教会の信徒たちの信仰生活と衰退
初代教会の信徒たちは、自分たちは新しい宗教の信徒となったという意識をもっていなかった。彼らは安息日には神殿礼拝に行き、それに加えて主の復活を記念して週の第一日にも集いを持っていた。彼らはユダヤ人であり、旧約の成就として今の時代があるという認識で一致していた。
しかし、イエスをキリストと信じるものたちに対するユダヤ当局の迫害が激しくなってくると、彼らはもはやユダヤ教の会堂・神殿から出るようになっていく。ヘロデ・アグリッパは、ヨハネの兄弟ヤコブ(エルサレム教会の指導者、主の兄弟ヤコブとは別人)の処刑した。またペテロも逮捕されたが、主の使いによって救出された。62ADには主の兄弟ヤコブが大祭司の命令で処刑される。迫害が激しくなり、エルサレム教会の指導者たちは、ヨルダンの向こうの町ペラに移住した。その直後、66年にイスラエルはローマ帝国に対して反乱を起こし、70年にエルサレムはローマ帝国軍に滅ぼされてしまう。彼らは祖国を失った。
古代ユダヤ人のキリスト教会は135年ころまでに相当数エルサレムに帰還するが、他の教会と交流を持つことはなく、キリスト教の主導権は異邦人キリスト教会へと移っていく。数世紀後に、異邦人のキリスト教著作家はユダヤ人キリスト教会は古い律法の慣習を守りつづけていたので、異端的な団体と見たようであるが、異邦人5世紀ころには記録からも消えていく。今でいう、メシアニック・ジューみたいな存在か?
かつて世界の教会の総本山であったエルサレム教会が、このように消えていったのには、不思議を感じる。主イエスがサマリヤの女に対して言われたことばを思い出す。イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」(ヨハネ 4:21)主はキリスト教会に総本山のようなものが存在することを望まれないのであろう。だが、やがてローマは総本山を名乗るようになってしまうのであるが。
まとめ
1. エルサレム教会の営み・・・教会にとっての必要十分なしるし
これは特別に重要。というのは、改革をめざす教会にとって、新約の時代の姿は一つの基準となるからである。宗教改革は、一面、新約聖書的な教会の復興であるから。
2. 新約時代の教会の旧約以来の一貫性と「新しさ」
両方が大事。新約の新しさのみをいうと、後に学ぶグノーシス主義、マルキオン主義の異端に陥る。改革派神学は旧新約の一貫性を強調するあまり、新約の新しさを見落としている嫌いがある。
3. 教会政治の組織化
ペンテコステに一気に3000人の信徒を得、その後も急速に人数が増えていった教会である。組織化は必要不可欠であった。
第一回エルサレム会議にみるように、地方地方に生み出される教会は単立主義ではなく、「公同の教会」の一肢であるという自己認識を持っていた。我々も使徒信条において「聖なる公同の教会を信ず」と告白するならば、その実を見せよと主から言われるであろう。