信州の松原湖バイブルキャンプでの研修会に出かけてきました。松原湖は前任地小海町にある八ヶ岳の懐にある湖です。北陸新幹線佐久平から小海町に向かって国道141号を走ってゆくと、なんだか「長い北海道での夢」を見ていたような不思議な気分になりました。信州には22年間、私の人生のなかで一番長く住んでいましたからね。
研修会のテーマは「包括的な宣教」ということでした。講演をうかがって、この件について、私なりに考えたことを少しメモしておきます。
伝道のみを強調してきた福音派キリスト教会は、東北大震災で支援活動にかかわる中で、ローザンヌ誓約以来、強調されてきた「社会的責任は伝道とともに教会の大切な務めである」ことに実際に目覚めさせられました。そこで今回のテーマとなったわけです。
主イエスの福音宣教には、病者の癒しのわざが伴っていましたし、初代教会ではやもめへの配給がなされていましたし、ヨーロッパの古代・中世・近世の教会においても同様です。近代英国で、産業革命によって生じた都市での人口爆発とスラム化という事態において、もっとも効果的な社会改良をしたのはジョン・ウェスレーの宣教でした。ただ、20世紀前半に無神論的共産主義運動への警戒感から、福音派は社会的責任から手を引いた時期がありました。ローザンヌ誓約でその反省がなされました。
では、老人ホームや幼稚園や学校などを備えていない教会は、「包括的宣教」の任務を果たしていないのでしょうか。もしそう考えるとすれば、それは視野の狭い、非包括的な見かたです。「包括的」というのは、福祉と教育だけでなく、家庭、労働、科学技術、芸術、経済、政治、歴史観など、生活のあらゆる領域を含んでいます。生活のあらゆる領域における根本的なあるべき姿を聖書的有神論的観点から把握し、説教と祈りをもって信徒を整えて、それぞれの分野に派遣し、信徒たちがそれぞれの場で世の光、地の塩をして生きているとすれば、その教会はすでに包括的な宣教をしているのです。
教会は、第一にキリストの十字架の福音をもって、人々を神に立ち返らせ、第二に、新生した人々が社会のそれぞれの分野にあって、神の栄光をあらわすように聖書によって育成し派遣することによって、包括的宣教の任務を果たすのです。教会が付属の教育機関や福祉施設をもつことも良いことでしょうが、包括的宣教のために必須のことではありません。
したがって、教職養成機関(神学校・教団教職教育部)が果たすべき任務は、第一に十字架の福音による伝道によって教会を建て上げ、第二に悔い改めた信徒たちを聖書的世界観に立ってそれぞれの分野で神の御旨を行うように励まし育成する教職者の養成です。