苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

三陸沖地震と大津波


 プレート境界型地震として東海地震よりも差し迫っていると言われるのは、宮城県三陸地震であり、30年以内の発生確率は99パーセントとされている。吉村昭が『三陸海岸津波』(1984年文春文庫)で取り上げたのは、1896年(M29)6月15日の大津波と1933年(S8)の大津波である。三陸海岸はリアス式でのこぎり状の海岸線となっており、小さな湾が無数にあって湾の奥にそれぞれ漁村があった。村々の背後には断崖絶壁がそそり立っていて、ある村は海の側からしか近づくことができない地形だった。つまりそういう村は津波に対しては逃げ場がなかった。
 明治の大津波日露戦争後、三国干渉(M28)直後のことだった。岩手県野田村のひとりの巡査は夕刻、突然、沖合いにドーン、ドーンという轟音を聞いて、軍艦の砲声かと思い、海上を凝視したという。しかし、これは砲声ではなく日本史上最大の津波が生じた轟音であった。震源地は釜石の東方200kmの海底で、各地の震度2〜3程度で誰も気にとめるほどのことはなかった。ところが、地震発生から約30分後、大津波三陸海岸を襲った。吉村の取材によれば、津波の高さは沖合いでは平均10m〜15mであっても、リアス式の入り組んだ湾に入り込んだ行き止まりでは高さ50メートルに達したという証言さえ記されている。ところが防潮堤の高さはわずか8メートルにすぎなかったのである。
 明治の大津波の被害は宮城県下の死者3452名、流失家屋3121戸、青森県では死者343名にのぼる。岩手県ではさらに被害ははなはだしく、死者22535名、負傷者6779名、流失家屋6156名。岩手県南部気仙郡では人口の21パーセントが死亡し、吉浜村では人口1075名中、死者は982名と全滅に近い。吉村のペンは常のごとく克明に、淡々と事実を記述する。その事実が重く、恐ろしい。
 三陸地震は、やはりプレート境界型なので、周期性をもって訪れてきた。
 869年三陸地震貞観三陸地震)・・・M8.6-9.0と推測される日本史上最大の地震
 1611年三陸地震慶長三陸地震)・・・M8.1
 1896年三陸地震(明治三陸地震)・・・M8.5
 1933年三陸地震昭和三陸地震)・・・M8.1
 なお現在、宮城県女川町には東北電力女川原子力発電所が稼動中である。