どうも「賛美論」というと、議論になってしまいますね。議論がかならずしも悪いことだとは思いませんが、9月30日の記事のなかで伝えたかったところが置き去りにされているので、もう一度書きます。
「(前略)・・・格別、主の尊い御名をとなえるときは、恐れと感動をもって唱えたい。若い日、愛するひとの名を口にするだけで、胸がどきどきしたという経験を持つ人もいるだろう。まして、聖なる主の御名である。ハレルヤのヤは、ユダヤ人が口にすることさえ恐れを抱いた主の御名である。大事にしたい。・・・(後略)」
恋人の名と主の御名を類比的にあつかうことは不謹慎だという方がいらっしゃるかもしれないけれど、『イミタチオ・クリスチ』の聖餐論にそんな類比があるし、パウロもキリストと教会を花婿と花嫁にたとえているので、お許しいただけるかと思います。
堺正章の若い日の歌「街の灯り」のサビに「息で曇る窓に書いた君の名前指でたどり、あとのことば迷いながら・・・」というせつない歌詞がありました。まして、神の御名を呼びうる感動をいつも忘れないでいたい。また歌謡曲ですか・・・とため息をつかれる向きにはごめんなさい。筆者の育った音楽環境は、歌謡曲とフォークソング。それからもっと幼い日には、母が歌って聞かせてくれた唱歌と、父が風呂で歌っていた「大利根月夜」みたいな演歌です。小学生の頃、クラシック・レコードといえばビゼーのカルメン1枚というお粗末さでした。ああ、姉がピアノを習っていましたから、ピアノ曲についてはいくらか聞いた記憶があります。ピアノ曲といえば、二十歳すぎたごろ、なぜかメンデルスゾーンの「無言歌集」を繰り返し聞いていました。「無言歌集」とはよく名づけたもので、確かに歌集なのでした。でも、交響曲というのはピンと来ないんです。ここ数年、題名のない音楽会と「のだめカンタービレ」で交響曲に少々親しみを感じるようになりはしましたが。
それはそうとして、胸震えることもなく「ハレルヤ」「イエスさま」「父よ」とお呼びするようなことがないようにと思います。先日の聖書講解で引用した八木重吉の詩を再録しておきましょう。神の子とされた喜びをこんなに素朴な詩に表現しています。
1925年大正14年2月17日より
われはまことにひとつのよみがえりなり
おんちち
うえさま
おんちち
うえさま
と とのうるなり