だから、こう祈りなさい。
『天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように地でも行われますように。
マタイ福音書6章9,10節
序
ある牧師さんが、教会のこどもに「主の祈りの『にちようのかてをあたえたまえ』ってわかる?」と聞きました。すると、子どもは「うん。きょうは日曜日だからね、日曜日のごはんをというのでしょ。あしたは月曜のかてを」と答えたそうです。意味をちゃんと教えないで祈らせたらいけないんだなあと、牧師さんは反省したそうです。
「だから、こう祈りなさい」という「だから」は、前に出てくる「異邦人の祈りはただ意味のない繰り返しばかりをしているようだけれど、君たちは彼らのようにではなく祈りなさい」との意味です。たとえ主の祈りであっても、意味もわからず繰り返しているだけなら、イエス様の意図から外れていることになってしまいます。ですから、私たちは、この主の祈りの意味を正しく理解し、味わって祈ることが大事なことだということになります。日ごろ文語訳の主の祈りを用いていますから、なおのこと私たちは正しく理解する機会にしたいものです。
そこで、この主の祈りの意味をよく理解し味わってみましょう。
1 まず神、そして、人
まず、全体の構成についてです。主の祈りは前半と後半に分かれます。前半は、「天にましますわれらの父よ」から、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。前半は神様にかんする祈り、願いであり、後半は、「われらの日用の糧を・・・」から後です。後半は私たち人間の必要に関する、神様へのお願いであることに気づきます。
<まず、神様のこと、次に人間のこと>という順序は私たちキリスト者の根本的な人生観といいますか、世界観といいますか、信仰のありようということが表現されています。<まず神様、次に人間>という順序です。十戒も、第一から第四戒までは、神様にかんする戒めであり、第五戒から第十戒は人間関係にかんする戒めとなっています。<まず神、そして人>という順序です。
イエス様も律法学者から多くの戒めのなかで最も優れた戒めはなにかと問われたとき、「「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。 12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:29-31)とお答えになりました。やはり、<まず神つぎに人>という順番です。
なぜ、このような順番なのでしょう?神が万物の創造主・主権者であり、私たちは神様の被造物・作品ですから、<まず神そして人>なのです。私たち人間が存在しなくても神様は永遠から永遠いらっしゃいますが、もし神様が私たちを造ってくださらなかったとしたら、この宇宙も地球も存在しないし、人間も存在することすらないのです。だから<まず神、そして、人>なのです。
また救いということについても、<まず神、次に人>という順序は正しい順序です。救いはまず神から始まります。神が一方的に罪ある者を選び、愛してくださり、御子イエス様の十字架のあがないを適用してくださったのです。その恵みに答えて、私たちは御子イエスの足跡にならっていきます。まず神が愛してくださった。人はこれに応答して御心にしたがっていきます。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、これらのもの(衣食)はすべてそれに加えて与えられます。」という主のお約束が、主の祈りの構成にも現れているということができます。
2 天にましますわれらの父
次に呼びかけのことば。「天にましますわれらの父よ」。口語でいえば、「天にいらっしゃる私たちのお父様」です。ここには神様の偉大さ・きよさと、同時に、神様の親しさ・近しさが表わされています。「天にまします」ということは、神様のきよさ偉大さを表わしています。神様は、土から造られて、しかも罪にまみれてしまった私たちのような者ではなくて、天にいらっしゃる超越者であり、聖なるお方であるということが表わされています。 創造主と被造物という関係だけをいうならば、私たちが神様を父と呼ぶことは決してふさわしくないでしょう。人間は自転車を作りましたが、人間は自転車の父親ではありません。自転車は人間の子どもではありません。人間はロケットを作るでしょうが、ロケットは人間の子どもではありません。ロケットも自転車も人間の作品ではあっても、人間の子どもではありえませんね。同じように、神様と私たちの間柄も、創造主と被造物という関係からいうならば、決して親子とはいうことができません。むしろ、主人としもべの関係なのです。
実際、旧約聖書では神様と人間の基本的関係は、主としもべの関係として表現されています。神とアブラハムの関係、神とモーセの関係、神とダビデの関係、神とイザヤの関係はいずれも基本的に主としもべの関係でした。
それにも拘らず、この新約の時代にいたって、主イエスは弟子たち、私たちに対して、「天にいます私たちの父よ」と祈っていいのだよと教えてくださいました。なぜでしょうか?それは、天の父なる神の実の一人息子であるイエス様が、私たちと同じように人間になってくださったからです。イエス様は神から永遠に生まれられたお方なので、神でいらっしゃいますが、人となってくださったのです。そういうわけで、私たちはイエス様という人となられた神を介して、神の養子にしていただいたのです。イエス様は実子であり、私たちは養子であるという違いはあるものの、私たちは神の子どもとしていただきました。それで、「天にましますわれらの父よ」と祈ってよいのです。それほどに、神は私たちに近づいてくださったのです。
また、人間世界での養子というのは法律的・立場的なことにとどまりますが、神様が私たちを養子としてくださったばあいは違います。神様は、私たちをイエス様にあって養子としてくださると同時に、御子イエスの霊をくださったのです。ですから、単に法律的・立場上、神様の子どもとなったのではなく、実質的に魂の叫びをもって、喜びをもって、神様を「おとうさん」と信頼して呼ぶことができるようになりました。
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」ローマ8:15
しかも「天にいますわが父よ」ではなく、「天にいますわれらの父」とあります。それは、父なる神は自分だけの父ではなく、主にある兄弟姉妹みんなにとっての父であるからです。教会は御子イエス・キリストを長子とする、神の家族の集いです。天のお父様にむかって、教会は信仰共同体として、祈りの共同体として、祈るのです。ですから、礼拝のなかで、主の祈りを繰り返し味わうことはとてもふさわしいことなのですね。私たちは「天のおとうさま」というとき、あの兄弟あの姉妹にとってもお父様なのだということを思い出すのです。そうして、とりなし祈るのです。
3 御名をあがめさせたまえ
父なる神の御名があがめられますようにという祈りです。神様は万物の主であられ、聖なるお方であられ、唯一礼拝されるべきお方です。ところが、あまりにも多くの人々が、この神様に背を向けて石や木や金属で造られた像を神々としてあがめたりしています。また、「神などはいるものか」といって、無神論を誇りとして、人間理性をあがめたりしています。あるいは、まことの神様を見失った人々は経済が価値のすべてであるかのように思い込んで、金儲けのためにひたすら人生を費やしています。
「まことの神が、神としてあがめられますように」というのは、もっとも根本的な祈りです。まことの神様が認められず、あがめられないという状態は、この世界を一軒の家にたとえるならば、一番たいせつな大黒柱がないという状態です。天地万物を造り、今もよい人にも悪い人にも太陽を上らせ雨を降らせていてくださるこのお方が、人々から無視されているのは異常な事態です。
人は、畑を耕したり、会社に行ったり、さまざまなものを発明したり、政府を作ったり、学校を作ったり、部活をやったり、音楽をしたり、料理を作ったり、商売をしたり、服をつくったり、お化粧したり、家を建てたり、結婚をしたり、いろいろなことを行って、なんとかして幸せになりたいと頑張っています。頑張っていますけれども、もっとも大事なことをおろそかにしています。もっとも大事なこととは、神様を神様として礼拝することです。
神が世界を創造なさった目的は、その被造物の営みを通して神の御名があがめられること、神様のご栄光が顕されることです。ですから、これこそ全世界の大黒柱です。もっとも根本的なことです。
そこで、有名なウェストミンスター小教理問答第一問答はこうあります。
問 人間の主な目的はなんであるか?
答 人間の主な目的は、神の栄光を顕し、神を永遠に喜ぶことである。
私たち教会が伝道するのも、究極的には、このためです。確かに伝道において私たちは人が神様の前に救われるようにと願います。その人が救われて天国に行けるようにと願います。でもそれが究極の目的ではありません。本当の究極の目的とは、まことの神様に背を向けて無視している人が、まことの神様のことを知って御名をあがめるようになる、そのことです。そのために私たちは伝道をするのです。
4 御国をきたらせたまえ、御心の天になるごとく地にも
御国と訳されることばバシレイアは王国、あるいは王的な支配という意味のことばです。神の国とも天の御国とも呼ばれます。父なる神が、この地においても王として支配してくださるようにと願って祈るのです。その意味では「御国を来たらせたまえ」と「御心の天に成るごとく地にもならせたまえ」というのも同じ意味です。
イエス様の教えのなかでは、御国はイエス様が再臨なさったときに完成するという意味で、未来にやってくるものだと一面はされています。この主の祈りでも「御国を来させてください」と祈っているわけです。イエス様は、十字架で私たちの罪をすべてあがなわれたのち復活されて、天の父なる神のもとに戻ってゆかれました。ですが、イエス様は再臨の約束をしてくださっています。それは、いつとかどんな時であるかということは私たちには知らされていませんけれども、必ずイエス様は再び栄光の雲とともにいらっしゃるのです。そして、世界に最後の審判を下されて、新しい天と新しい地を造って、復活のからだを賜った私たちをそこに住まわせてくださいます。神の国では、世界中のあらゆる民族国語を越えた人々がやってきて、同じ食卓について交わるのです。ルカ「 13:28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。13:29人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。」
さらに、完成した御国においては、単に人間だけではなく、全被造物が完全に贖われます。アダムが堕落して以来、被造物全体がのろいの下に置かれているのですが、イエス様が再び来られるときには、全被造物が栄光のうちに入れられ完成されるのです。これが、御国の未来ということです。
ですが、もう一方で、イエス様は、御国はすでに来ていると教えてもくださいました。
マタイ12:28 「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」つまり、イエス様がおいでになって宣教を始め、悪魔のわざを打ちこわし始めた時、神の国はすでに始まったというのです。
またイエス様は次のようにもおっしゃいました。ルカ「17:20 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。 17:21 『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」神の国は未来、主イエスの再臨によって完成するものです。しかし、イエス様にあって神の王としてのご支配に服従して生きる神の民のうちに、すでに神の国は来ているのだとおっしゃるのです。
ですから、私たちは主の再臨を待ち望みながら、「御国をきたらせたまえ」と祈るのですが、それは遠い未来のことだけではなくて、「今日、このときに、私たちの歩みを神様が支配してくださいますように」というきわめて実践的、具体的なことがらとしてお祈りをささげるのです。人生の岐路に立つときに、「神の国とその義を第一に求めるのはどちらの道でしょうか?」と考えるのです。学生であれば、学校の選択にせよ、部活の選択にせよ「ぼくは神の王国の民として、どちらの道を選ぶことが、キリストを王としてあがめることになるのだろうか?と祈って考えるのです。そうしてキリストを王としてあがめる選択をするとき、そこに、神の国はあるのです。