苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

乱暴な時代

 サムエル記第二の1章、2章、3章をドラマ聖書で聴きました。サウル王没後、ユダ族がダビデを王として油を注ぎ、他のイスラエルの諸部族はどうしようかというとき、ダビデの将軍ヨアブたちとサウルの将軍アブネルたちの争いが起こります。闘技大会のようにして始まったはずなのに、素手か棒で戦えばいいのに、真剣でやるものだからいきなり死者が出て、ついにはアブネルはしつこく追いかけてくるアサエルーヨアブの弟―を殺してしまいます。小競り合いはいったん止みますが、後日、ヨアブは弟の死のことでアブネルを謀殺してしまいます。
 なんとも、乱暴な時代だなあという印象。そして、ダビデはサウルの戦死に際して、その死を悼む歌を歌ったように、今度はアブネルの死を悼んで歌います。このことをもって、民はダビデがサウルの遺臣アブネルを謀殺したわけではないと納得しました。
事実、ダビデの知らないところで起こったことではあったのですが、ダビデは民心を得るためのパフォーマンスのたくみな人だという印象も持ちますね。
 聴くドラマ聖書のゆっくりとしたペースで聴くと、いろいろ感じるところがあります。

ノアは神とともに歩んだ

 ノアの時代、世は乱れに乱れていました。かつて神が不敬虔なカイン族とは別に起こした敬虔なセツ族の若者たちもカイン族の娘たちと交じり合うようになったからです。人々がその心に図ることはみな悪に傾き、地は暴虐で満ちていました。そんな時代に、ただ「ノアは主の心にかなっていた。」(創世6:8)そして「ノアは神とともに歩んだ」(同6:9)のでした。「ノアが神とともに歩んだ」とは具体的にはどのようなことを意味しているのでしょうか。世の中全体の価値観が完全に腐りはててしまった時代に、ノアはどのようにして神とともに歩むことができたのでしょう。

 神はノアに巨大な箱舟の建造を命じました。神が三階建てのその設計をノアに教えました。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」(同6:22)とあります。ノアは箱舟建設に全財産と全エネルギーを注ぎ込みました。はたから見れば、神のことばに従うことは愚かなことでした。いつの時代も神のことばは、滅びゆく人々には愚かですが、救いに至る人々には神の力です。箱舟が完成すると、主はノアに動物たちを舟に乗りこませよと命じ、七日たつと四十日四十夜の雨を降らせ、地上のすべての生けるものを大地の面から消し去るとおっしゃいました。「ノアは、すべて主が彼に命じれたとおりにした。」(同7:5)とあります。果たしてノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、地下水源が破裂して大量の水が噴き出し、天から雨が降り注ぎ、箱舟は大海原を漂うことになります。

 六百一年目の第一の月の一日に、水は地の上から干上がりました。ノアが箱舟の覆いを取り払って眺めると、地の面は乾いています(同8:13参照)。喜び勇んでノアは船外に飛び出したでしょうか。いいえ、ノアは箱舟から出ようとはしませんでした。およそ二か月間、第二の月の二十七日までノアはなお箱舟の中に踏みとどまりました。なぜでしょう?神の命令がなかったからです。第二の月の二十七日、ようやく神の命令がノアにありました。「あなたは、妻と、息子たちと、息子たちの妻たちとともに箱舟から出なさい。」そこでノアは、ようやく腰を上げて、息子たち、彼の妻、息子たちの妻たちとともに外に出たのです。

 現代はノア時代のようです。この時代、私たちが神とともに歩むことができるとすれば、ノアのように神のことばを待ち、神のことばに聴き従う以外に道はありません。

マルコーおっちょこちょいの臆病者をも

 

 

「ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。」(マルコ14:51,52)

 

 マルコは十二弟子ではありませんが、その福音書には、ペテロの生(なま)の証言が保存されているようです。例えば山上の変貌を見ると、マタイは主の衣について「光のように白くなった。」(マタイ17:2)と書き、ルカは「白く光り輝いた。」(ルカ9:29)と書きますが、マルコは、「その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。」(マルコ9:2,3)と表現します。いかにも素朴な漁師ペテロの口ぶりではありませんか。

 また、マルコには「すぐに」という口癖があって、第1章の中だけで、なんと8回も「すぐに」と言っています。「イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。」(10節)、「それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」(12節)、「すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。」(18節)、「イエスすぐに彼らをお呼びになった。」(20節)、「こうして、イエスの評判はすぐにガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった。」(28節)、「一行は会堂を出るとすぐに、シモンとアンデレの家に入った。」(29節)、「すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。」(42節)「イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせた。」(43節)マルコは気の短い行動的な人だったという印象がします。福音書もクリスマス記事をすっ飛ばして、いきなりガリラヤ宣教から始まります。

 そして、マルコはその福音書の中に、名を伏せながら自分自身を登場させています。官憲と群衆がゲツセマネの園で祈っている主イエスを逮捕したときのことです。「ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。」(マルコ14:51,52)とあります。恐らく、主が弟子と最後の晩餐をとった二階部屋がマルコの家でした。主と弟子たちが出かけていった後、マルコが水浴びでもするためか裸になったとき、官憲がイエスを捕えに来たのです。そこでマルコは、そこにあった亜麻布をひっかぶってゲツセマネに走ります。しかし残念。到着すると、主はちょうど官憲に逮捕されたところでした。後をつけるマルコは、敵に見とがめられて、いのちからがら裸で逃げ出したのでした。こんなおっちょこちょいの臆病者をも主は赦してくださったという感謝の特ダネ記事です。

時の体感速度

 きのう、きょう、苫小牧はお天気もよく暖かです。「三温四寒」とはいいませんが、そんな感じで冬へ冬へと進んでいきます。
 11月も半ばですね。なんだか時がたつのが加速しています。時のたつ体感速度は、それまで生きてきた年数と比例する感じがしますね。年を取ればとるほど、時の体感速度は上がっていく。赤ちゃんのときは覚えてませんが、小学低学年のころ、一日がとっても長かったような気がします。この年になると、一年すらあっという間。
 
 あすの週報、説教準備ができました。
マタイ11章25-27節「神の啓示は小さき者に」です。

エノシュ―ヨワシ君

「レメクは妻たちに言った。『アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。』

アダムは再び妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけた。カインがアベルを殺したので、彼女は『神が、アベルの代わりに別の子孫を私に授けてくださいました』と言った。セツにもまた、男の子が生まれた。セツは彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々は主の名を呼ぶことを始めた。」(創世記4:23-26)

 

カインは兄弟アベルの血を大地に流したことのゆえに大地に呪われ、さすらい人となりました。彼は、神抜きで生きるためにエデンの東にノデ(さすらい)という名の町を築きます。カインの子孫の中から、文明の利器が次々と発明されていきました。神の守りを信じられないので、自ら高い塀をめぐらして町を造り、鉄器を造って武装するようになります。また、神の慰めを得られないので、自ら竪琴を工夫して自らを慰めるようになりました。また、レメクは二人の妻を持って、傲慢のきわみの歌を歌います。神に背を向けた彼らは、かえってギラギラとした文明を開花させたのです。

他方、神は、死んだ敬虔なアベルの代わりに、アダム夫妻にセツを与え、セツからエノシュが生まれました。エノシュという名は「弱い(アナシュ)」という言葉から来ています。ヨワシ君です。日本には毅(つよし)君はいても、弱君はいませんね。と父セツがなぜわが子にヨワシなどという名を与えたのかはわかりませんが、想像をたくましくすれば、難産で衰弱して生まれてきたわが子を見て、この子のために自分には何もすることができないという現実に直面させられた父親セツがひたすら「主よ!この弱い子にいのちを与えてください。」と懸命に主の御名を叫んだことが心に残って、エノシュと名付けたのかもしれません。弱さに中にこそ、神の恵みと力が現れることを経験した記念の名がエノシュであるように思われます。

そういえば、使徒パウロもそういう経験をしました。彼は自分の肉体に与えられたとげが人々のつまずきになることを恐れて、三度も癒しを求めて祈りましたが、主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」とパウロに言われました(2コリント12:9参照)。

 

*ちなみに、エノシュאֱנ֥וֹשׁには「人」という意味もあって、特に人間の弱さを表現するときに使います。例えば詩篇8篇4節。

メッキの刃

 日本語では、「私はあなたを愛します」と、SOVの順だが、中国語は英語と同じくSVOという語順なので、”I love you.”はそのまま「我愛你」となる。今、「鬼滅の刃」が大流行しているそうだが、「鬼滅」は「鬼が滅びる」ということであって、「鬼を滅ぼす」という意味にはならない。「鬼を滅ぼす刃」なら、「滅鬼の刃」と言わねばならない。でも、そうすると、「メッキの刃」と読めてしまうから、なんだか鋼に錆びないようにメッキをした刃みたいで、はなはだカッコ悪い。それで、えーい、日本語式順序でやっちゃえということで、「鬼滅の刃」としたのだろう。「メッキの刃」だったら、きっと今のような社会現象は起きていないだろうから、これで良かったのだろう。・・・とどうでもよい感想でした。

アビガイル

1.アビガイルといえば、聖書の世界では、聡明な美女ということになっていますね。やりとりを聴くドラマ聖書で聴くと、確かになるほどーと思いますが、夫ナバルが神に撃たれたあとの転身の速さに、ちょっとナバルが気の毒にもなります。・・・というのは、人間的感想。

2.ダビデがアビガイルにとどめられて、ナバルに対するさばきを神に委ねた結果、神ご自身がナバルを撃ちました。そのとき、ダビデは公正な神の審判を賛美しました。さばきには、神の正義の栄光が現れたのです。聖書には、罪人をさえ救われる神の恵みの栄光と、罪人を罰する神の正義の栄光という思想が同時にあります。万人救済論者には、この神の正義の栄光ということが読みとれていないのでしょう。

3.そして、もうひとつ。ダビデの弱点は女性でした。彼は美女に弱かった。これが彼の人生を誤らせることになります。
 ダビデ サムエル記第一25章。