「ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。」(マルコ14:51,52)
マルコは十二弟子ではありませんが、その福音書には、ペテロの生(なま)の証言が保存されているようです。例えば山上の変貌を見ると、マタイは主の衣について「光のように白くなった。」(マタイ17:2)と書き、ルカは「白く光り輝いた。」(ルカ9:29)と書きますが、マルコは、「その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。」(マルコ9:2,3)と表現します。いかにも素朴な漁師ペテロの口ぶりではありませんか。
また、マルコには「すぐに」という口癖があって、第1章の中だけで、なんと8回も「すぐに」と言っています。「イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。」(10節)、「それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」(12節)、「すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。」(18節)、「イエスはすぐに彼らをお呼びになった。」(20節)、「こうして、イエスの評判はすぐに、ガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった。」(28節)、「一行は会堂を出るとすぐに、シモンとアンデレの家に入った。」(29節)、「すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。」(42節)「イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせた。」(43節)マルコは気の短い行動的な人だったという印象がします。福音書もクリスマス記事をすっ飛ばして、いきなりガリラヤ宣教から始まります。
そして、マルコはその福音書の中に、名を伏せながら自分自身を登場させています。官憲と群衆がゲツセマネの園で祈っている主イエスを逮捕したときのことです。「ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。」(マルコ14:51,52)とあります。恐らく、主が弟子と最後の晩餐をとった二階部屋がマルコの家でした。主と弟子たちが出かけていった後、マルコが水浴びでもするためか裸になったとき、官憲がイエスを捕えに来たのです。そこでマルコは、そこにあった亜麻布をひっかぶってゲツセマネに走ります。しかし残念。到着すると、主はちょうど官憲に逮捕されたところでした。後をつけるマルコは、敵に見とがめられて、いのちからがら裸で逃げ出したのでした。こんなおっちょこちょいの臆病者をも主は赦してくださったという感謝の特ダネ記事です。