苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

エノシュ―ヨワシ君

「レメクは妻たちに言った。『アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。』

アダムは再び妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけた。カインがアベルを殺したので、彼女は『神が、アベルの代わりに別の子孫を私に授けてくださいました』と言った。セツにもまた、男の子が生まれた。セツは彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々は主の名を呼ぶことを始めた。」(創世記4:23-26)

 

カインは兄弟アベルの血を大地に流したことのゆえに大地に呪われ、さすらい人となりました。彼は、神抜きで生きるためにエデンの東にノデ(さすらい)という名の町を築きます。カインの子孫の中から、文明の利器が次々と発明されていきました。神の守りを信じられないので、自ら高い塀をめぐらして町を造り、鉄器を造って武装するようになります。また、神の慰めを得られないので、自ら竪琴を工夫して自らを慰めるようになりました。また、レメクは二人の妻を持って、傲慢のきわみの歌を歌います。神に背を向けた彼らは、かえってギラギラとした文明を開花させたのです。

他方、神は、死んだ敬虔なアベルの代わりに、アダム夫妻にセツを与え、セツからエノシュが生まれました。エノシュという名は「弱い(アナシュ)」という言葉から来ています。ヨワシ君です。日本には毅(つよし)君はいても、弱君はいませんね。と父セツがなぜわが子にヨワシなどという名を与えたのかはわかりませんが、想像をたくましくすれば、難産で衰弱して生まれてきたわが子を見て、この子のために自分には何もすることができないという現実に直面させられた父親セツがひたすら「主よ!この弱い子にいのちを与えてください。」と懸命に主の御名を叫んだことが心に残って、エノシュと名付けたのかもしれません。弱さに中にこそ、神の恵みと力が現れることを経験した記念の名がエノシュであるように思われます。

そういえば、使徒パウロもそういう経験をしました。彼は自分の肉体に与えられたとげが人々のつまずきになることを恐れて、三度も癒しを求めて祈りましたが、主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」とパウロに言われました(2コリント12:9参照)。

 

*ちなみに、エノシュאֱנ֥וֹשׁには「人」という意味もあって、特に人間の弱さを表現するときに使います。例えば詩篇8篇4節。