苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ポストモダン風の「愛」の誤解

 <主観的事実がすべてであり客観的事実などは存在しない>というのがポストモダン思想である。だから<あなたの真理はあなたの真理。私の真理はわたしの真理。>ということになる。それが心理療法に影響を及ぼし、日本のキリスト教界にはここ40年ほど前から牧会カウンセリングの手法として影響が入って来た。そうした心理療法では傾聴すること、受容することの重要性が非常に強調される。心を病んだときに、人は他者から意見されると、非難されたと感じて貝のように心を閉ざしてかたくなになり、正常な判断が出来なくなってしまう。そういう人は傾聴され受容されることによって、冷静になって正常な判断ができるようになることがある。だから、「先生に話を聴いてもらったら、自分のごちゃごちゃになっていた頭の中が整理できました。」ということになる。傾聴とか受容ということは、牧会カウンセリングの心得として大切なのは事実である。

 だが、理論家というものはなかなか中庸にとどまることができなくて、えてして極論に走るものである。<精神治療においては、客観的な事実はどうでもよい。本人がどのように感じているか、つまり、主観的事実がすべてである。>というふうに、今風のカウンセリングでは主張されている。

 この種のカウンセリングが聖書における愛の理解や牧会に影響を及ぼして、「愛する」とは真理や客観的事実は横に置いて、とにかく「ありのままに受け入れること」「当事者に寄り添うこと」であるという考え方が、キリスト教界の中に相当浸透している。たしかに人は受けいれられなければ、心を開かないし、心開かないと神のことばを聴けないから、牧会者にとって相手を受け入れる態度は重要である。ヤコブ書も「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」(1:19)という。しかし、それだけでは聖書的な愛の理解からほど遠い。

 もし目の見えない人が断崖絶壁に向かう道を歩いていたら、「私はあなたをありのまま肯定します。そのまま歩いていけばいいんですよ」と寄り添い続けることがどうして愛だろうか。真理を犠牲にしてただ寄り添うならば、悲惨な結果を招く。主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と、方向転換を求めたまう。聖書は「愛をもって真理を語る」ことを求めている(エペソ4:15)。