苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

KGK春期学校 お話Ⅱ「神と人間」

(創世記1章26−28節、同2章4−18節、コロサイ1章15−17節)
 中国には、孟子性善説と、荀子性悪説という二つの説がある。不思議なことに、それぞれの説を読むと、それぞれに説得力がある。人間の本性は善であるようでもあり、また悪であると言われればなるほどと思わせられる。人間というのは、不思議な存在である。
 聖書は、それに答えを与えている。人間は、本来、神の御子イエスに似た者として造られたので善なるものである。けれども、アダムにあって堕落してしまったので、その本性は罪に汚れてしまっていると。

1 人は神のかたち(御子)に似せて造られた。
(1) 「御子は見えない神のかたち」(コロサイ1:15)
 神があらゆる被造物を創造なさったとき、最後に被造物の冠として造られたのが人間だった。人間の被造物としての特徴は、「神のかたちにおいてאֱלֹהִ֖ים בְּצֶ֥לֶם in the image of God 」創造されたという点である。新改訳第三判では「神のかたちとして」と訳されているが、これでは人イコール「神のかたち」という意味になってしまう。「ベ」という前置詞はもっとも普通には「in」と訳されるから、ほとんどの英語訳聖書のように「神のかたちにおいて」と訳すのが適切であると思う。
では、「神のかたち」とはなにか?諸説あるが、新約聖書コロサイ1章15節の啓示によれば、それは御子(先在のキリスト)を意味している。
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」「かたち」と訳されることばは、エイコーンといって、コロサイ書記者パウロが親しんでいた70人訳聖書の創世記1章27節の「神のかたち」の「かたち」でもエイコーンという語が用いられている。「神のかたちにしたがって」(kat’ekon theou)と訳されている。パウロはこの万物の創造にかんする個所を、創世記1章を意識しつつ書いたことは明らかである。新約聖書が未完成であった初代教会にとっての聖書とは旧約聖書だった。旧約聖書のなかに、キリストをいかに読みとるかということは、とても大事なことだった。コロサイ書1章15節はまさにその一例である。
御子は、父なる神のみこころにしたがって、万物を創造なさり、父と被造物の仲介者的立場をとられた。特に、人は御子に似た者となるように創造された。だから、創造の初めから、人は、御子を目指して成長していくことが、その生の目標である。

(2) 神と人の区別と類似性
①神と人との区別
 人は神に似た者として造られたけれども、違いがある。神は無限であるが人間は有限であり、神は絶対者であるが人間は相対的存在であり、神は自存的であられるが人間は依存的である。人間は、ほかの被造物に依存して生きており、その創造者である神に依存して生きている。

②人には知性・感情・意志・創造力がある。
 神は、創造し、語り、区別し、満足するという無限の知性と感情と意志と創造力を持つお方であられる。この神の御子に似た者として造られた人間は、有限ではあるけれども知性と感情と意志と創造力を与えられた存在である。
 あるいは、宗教性・道徳性・知性の三つの要素を「神のかたち」と解釈する向きもある。

③人は愛の交わりに生きる。
 「人がひとりでいるのはよくない」(創世記2:18)と主はおっしゃった。アリストテレスは、人間は社会的動物であると言ったが、人間の特徴の一つを捕えている。神は父と御子が聖霊にある愛の交わりのうちに生きておられる三位一体のお方である。そのお方に似せて造られた私たち人間もまた、愛の交わりのうちに生きるように本来造られている。人格的な交流なしに、人間は生きることができない。
 その昔、プロイセンのフリードリヒ大王は、生まれた赤ん坊に人間のことばを教えなければ、どういうことばを話すようになるかを実験した。乳母たちに、赤ん坊に乳は与えても、語りかけることを禁じたのである。結果、赤ん坊たちは死んでしまったという。

2 人間に託された「地を支配する」任務・・・「耕し、守る」

 神が人間に与えた任務はなにか。創世記一章は「地を支配せよ」「地を従えよ」とある。しばしば、この部分を引用して、リン・ホワイト以来<人間が神のかたちに創造された特殊な存在であるという思想が、自然環境の破壊をもたらした。したがって、人間が単に自然の一部であるという東洋的汎神論的思想に立ち返ることが、この地球の危機の時代には必要なのである。>と言った素朴すぎて実証的根拠薄弱な主張が定説化している。
 けれども、こうした主張はあまりに非現実的にすぎる。そもそも、こうした主張をする人自身、紙とインクを使い、車を使い、電気を使い、テレビやラジオ放送を使って、こうした主張をせざるをえない。人間という存在は単に自然の一部ではなく、自然の一部でありながら、同時に、自然の外にあって自然に働きかける特殊な存在なのである。人間は、自然に働きかけて、自然のうちにないものを作り出してしまうものなのである。それは人間が人間であるかぎり捨て去ることのできない属性であるから、その現実を踏まえて、自然への働きかけ方、その姿勢を改めることこそ重要である。
創世記一章の「地を支配せよ」「地を従えよ」ということばは、悪しき専制君主としての大地の支配・収奪を意味していない。というのは、悪しき専制君主は堕落後の人間世界に出現したものだからである。ここには本来的な神のしもべとしての君主の支配が語られている。それは、創世記第二章十五節からあきらかである。「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」
 人が地を「支配し、従える」ことの内容とは、園を「耕し、守る」ことであった。ヘブル語において「耕す(アバド)」と「しもべ(エベド)」が同根の語であることは興味深い。「耕す」を「仕える」とうがって訳してみれば、「地に仕える」ことが人の大地支配の内容である。「じいちゃんは畑の世話をしているよ」というあのことばに当たろう。
 それを裏書きするように、創世記二章五節は言う。「地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。」(新改訳) 注目したいのは、「からである(キー)」である。この文章を原因と結果を倒置して、否定を肯定にして言い換えれば、つまり対偶をとれば、「神である主が地上に雨を降らせ、人が地を耕すゆえに、地は灌木や野の草を生やす。」ということになる。人は神の協力者として、地を世話することによって大地のうちに神が秘め給うた可能性を引き出すことが、すなわち「耕す」ことである。つまり「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(マルコ10:42,43)と主が教えられた神の国の王のありかたこそ、本来の大地に対する人のありかたである。
 
 他方、「守る」ということばは、農業という産業には、単に作物を得ることだけでなく、環境保全という重要な役割があることを示唆するものとして読み取れるであろう。井上ひさし氏は農業と工業の本質を比較して、工業は周囲からいろいろなものを取り込んで製品とともに排気ガスや廃水をはじめとするゴミを出す環境破壊型産業であるのに対して、農業は周囲からいろいろなマイナスをプラスに転じうる産業であると指摘する。このように、「耕し、守る」農業には食糧生産のみならず環境保全の機能があるのである。ここには人間の他の被造物に対する基本的な働きかけのありかたの原理が示されているのである。

3 「善悪の知識の木」の意味・・・神の主権の下で

(1)「善悪の知識の木」は何を意味したのか?
釈義的原則からして、最も近い同じ文脈における「善悪の知識」を中心に理解すべきである。ここでは、創世記3章5節と22節に見るように、「善悪を知るようになる」ことが、「神のようになる」ことと同値として扱われていることがわかる。
「あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになること」(3:5)
「人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」(3:22)
「善悪の知識」はここでは本来的に神に属するものとされている。人間のばあいは、神がお定めになった善悪の基