苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

三位一体の神・・・同盟基督教団信仰告白(3)

ヨハネ4:24、申命記6:4
創世記1:26、箴言8章、ヨハネ福音書1:1−3、17:5,24

日本同盟基督教団 信仰告白(2013年改訂)第二項
神は霊であり、唯一全能の主である。神は永遠に父と子と聖霊の三位一体であって、その本質において同一であり、力と栄光とを等しくする。

1. 神は霊である

「神は霊である」という表現はなにを意味しているのでしょう。イエス様は、

ヨハネ4:24 「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 とおっしゃいました。「霊とまことによって礼拝する」という表現は、なかなかむずかしいのですが、神の御霊に満たされて知情意すべてを傾けて、神の真実にかなった礼拝をささげるという意味であると解します。真理の御霊に導かれ、うわべの形式でなく全人格をもって礼拝しなさいということです。なぜか、それは、神様ご自身が、生ける人格でいらっしゃるからです。生ける人格でいらっしゃる神は、今も生きて働いておられ、私たちと人格的交流を持ってくださるお方であるということです。
 「神は霊である」というのは、旧約聖書の表現で言えば「生ける神」ということにあたりましょう。旧約時代、イスラエルの民が迷い込んだパレスチナの異教の神々がありました。バアル、アシュタロテ、ダゴンなどなど。しかし、いずれも木を刻み大理石を刻んでつくった死んだ神々にすぎませんでした。知性も感情も意志もないただの石ころ、木材でした。
 また、もし神が石ころなどの偶像ではないにしても、単なる原理とか法則のような非人格的存在にすぎないとすれば、私たちが神に祈ることは無意味なことです。たとえば万有引力の法則に向かって「万有引力さま、リンゴを落とさないでください」などと祈っても無駄なことでしょう。私たちの会話、祈りは、相手が人格であってこそ意味あるものです。
 旧約聖書に登場する聖徒たちは、神に向かって叫び祈ります。また、神は人に向かって語りかけられます。今も、神は聖書のみことばを開くとき私たちの心を照らして、私たちに悟りを与えてくださいます。それは、神は霊であって、私たちと人格と人格の交流を持ってくださるお方であるからです。
 私たちが「知る」というばあい、その対象がモノである場合と人格である場合があります。対象がモノである場合には、私たちは一方的に対象を知ります。観察したり、重さを量ったり、過熱したり、分析したりして、知るわけです。けれども、相手が人格である場合にはそうは行きません。相手が人格である場合、相手がその心を開いて語ってくれるとき、初めて相手を知ることができます。同時に、自分自身を相手に対して心を開いて語るということが必要です。このように人格と人格が出会うためには、相手を知ろうとするだけでなく、同時に自分も相手に知ってくださいという態度が必須なのです。
 神は霊であり人格でいらっしゃいますので、私たちが神を知りたいと願うならば、まず自分自身、神に対して心を開いて「神様、どうぞ私を知ってください。私の人生の傷も、痛みもすべて知ってください。」と祈ることです。そして、聖書を通して、またその説き明かしである説教を通して語られる神に対して耳を傾けることです。
 主イエスは「神は霊ですから、私たちは霊とまことをもって礼拝しなければなりません。」とおっしゃいました。形だけでなく、自分自身の心の一番深いところを開いて礼拝をささげるのです。主を求め始めた方も、このように神様に向かってありのままの心を打ち明ける会話をなさるようにお勧めします。それを祈りといいます。神は生きていて、聖書を通して語り、私たちの魂の叫びに耳を傾けてくださるご人格です。


2.唯一全能の主

申命記6:4「聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。」

 この世には神と呼ばれるものはたくさんあります。なぜでしょう?聖書はなんと言っているでしょう。 ローマ書1章によれば、世界を造られた唯一の神がいらっしゃるのに、私たちの先祖がこのお方に背を向けてしまったために、真の神がわからなくなってしまったのでした。けれども、人間はもともと神に向かい合うように造られた心ある存在ですから、その空洞のようになってしまった心を満たすものを求めるのです。「神は人に永遠への思いを与えられた」(伝道者)のです。
そこで、創造主に背を向けた人間は、さまざまな被造物を神々として祭り上げるようになってしまいました。鳥や獣や昆虫や石や大木や太陽・月、死者の霊、生きている人間などなんでも神々としてまつるようになりました。こういうのを多神教といいます。また、非人格的な宇宙の原理を「神」と呼ぶ人もいます。これは汎神論と呼ばれます。いずれも被造物を創造主ととりかえて拝んでいるのです。
 また、新約聖書では、主イエスが、「人は富にも仕え、また、神にも仕えることはできません」と特に警告なさったように、拝金主義(マモニズム)は強力な偶像崇拝です。今日でも経済第一主義は世界をおおっている最大の偶像崇拝かもしれません。カネさえあればなんでもできる。物ばかりでなく人間の価値、人の愛情、人間のいのちまでも金銭に換算して価値がはかれると思い込んでいるのは、マモニストです。
また、国家主義という偶像礼拝もあります。バビロンの王は自らの象徴として巨大な黄金の柱を立てて諸国の民に礼拝を求めました。ローマ皇帝は、神なる皇帝としてやはり国民に礼拝をもとめました。私たちの国でも、ほんの70年前、天皇は神であるとして礼拝を求められました。「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉じ・・・」と、国家が、当然のように国民に命を差し出せと要求する国家主義もまた一種の偶像崇拝です。
十戒の第一番目に「あなたには、わたしのほかに、他の神々があってはならない。」とあるように、動物であれ人間であれお金であれ、神ならぬものを神として祭り上げて拝むことは、神がもっとも忌み嫌われる罪であり、配偶者をとりちがえる姦淫の罪に譬えられています。
 まことの神は唯一絶対の、永遠から永遠にいまし、無から万物を創造なさり、私たちに生命を賜った神です。

この唯一絶対の神は、「全能の神」です。「全能の」というのは何でもご自身が望むことがおできになるという意味です。真の神は、全能とならんで全知・遍在という形容がされます。全知はすべてを知っておられて、神の前には心の中までも隠せるものはなにひとつないという意味です。遍在は、あまねく存在するという意味ですから、神様は、ここにいますと同時に、地球の裏のアルゼンチンにも、月にも、アンドロメダ星雲のかなたにも時空を超えて存在していらっしゃるのです。

神が唯一全能の神であられるからこそ、私たちはこのお方に頼る甲斐があります。多神教の神々というのは、能力的にも道徳的にも頼りにならない神々です。ギリシャ神話ではゼウスという神がもっとも偉大な神ということになっていますが、この神は結構きまぐれで女たらしで、いつも奥さんのヘラを恐れています。古事記を読みますと、アマテラスオオミカミは、弟のスサノウが高天原に上ってきて乱暴狼藉を働くと悲しみ嘆いて天岩戸に引きこもりになってしまいます。多神教の神々というのは、みな有限な神々ですから、親しみやすさは感じられても、頼りにならない神々です。しかし、聖書にご自分を啓示してくださったお方は唯一全能のお方ですから、まことに頼りがいのあるお方です。

3.永遠に父子聖霊の三位一体

 「神は永遠に父と子と聖霊の三位一体であって」とあります。聖三位一体、これこそキリスト教独自の教えであり、<唯一絶対の神が愛の神である>ということを示している真理です。神が三位一体であられるということばは聖書の中にはありません。聖書が<神は唯一である>と言っていることと、<父なる神であり、御子イエスは神であり、聖霊は神である>と言っているので、それをまとめて簡潔に「三位一体」呼び習わしているのです。
 「永遠に」ということばが付けられているのは、古代の異端アレイオスが言ったように御父のみが存在していて、御子が存在したときがあったということはないということを意味しています。御子は父から生まれましたが、それは永遠の誕生でした。御子は黙示録で「わたしはアルファであり、オメガである」とおっしゃっています。もし、御子が途中から現れたなら、「わたしはベータであり・・・」とおっしゃったでしょうね(笑)。
 人間の理性が、三位一体の真理を思いついたわけではありません。人間の考え出した宗教は、神の至高性を徹底的に主張するイスラム教のような唯一神教か、逆に、神を人間の延長線上に構想した多神教なのです。神ご自身が聖書において、三位一体を啓示してくださったので、はじめて三位一体の真理を人は知ることができるのです。しかし、その真理はただ理解不能の神秘mysterionではなく、解いて味わうほどに意義深い謎aenigmaです。

 神は絶対者であるということは、言い換えると、神は唯一であるということを意味しています。「絶対」とは対するものを絶する、つまり、匹敵するものが存在しないお方という意味です。ですから、神様が絶対者であられるということは、神様は唯一であるということと同義なのです。複数いたら絶対者ではないのです。

申命記6:4 「聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。」

とあるとおりです。旧約聖書はたしかに神が唯一絶対のお方であるということをおもに啓示しています。「【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。」それは、きっとこの偶像に満ちた世界には、まずなによりも神はご自分の唯一性を明らかにする必要があったからでしょう。そうしなければ、ギリシャ神話やエジプトの神話と同じように、多神教と混同されてしまったでしょうから。

 一方、わたしたちは、先ほど「神は霊である」ということを学びました。その意味は、神は知性と感情と意志をもっておられる人格的なお方でいらっしゃるということです。人格的な存在は、愛するとか、語り合うとか、心通い合うとか、他の人格とそういう関係をもつものです。ということは、世界が存在する前、永遠の昔から存在なさる唯一の神が、世界との関係なしに、人格的な神であられたということは、その神のうちには永遠から永遠に、愛し合い、交流する複数の人格がいらっしゃるということを意味しています。愛する者、愛される者が、その唯一の神のうちに存在していらっしゃるということです。
 旧約聖書のうちに神のうちには複数の人格的交流があることを暗示している箇所がすでに存在しています。創世記1章26節をごらんください。

1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」

 神様はここで「われわれ」と、ご自分のことを指して言っています。ある人々は、これは「尊厳を表す複数である」とか「神が天使に語っているのだ」という説明します。それは、彼らの前提が、聖書釈義の目的は執筆者の意図に到達することであるからでしょう。創世記記者が三位一体を知っていたはずはないから、「われわれ」が三位一体を暗示していたはずはないということになります。けれども、私たちは「聖書はすべて神の霊感による」と信じている者として、聖書全体を読んでいくと、聖書の著者である聖霊は、この不思議な箇所について徐々にあの時、「われわれ」とおっしゃった意図をあきらかにして行かれたことに気づきます。
 箴言8章は「知恵は呼ばわらないだろうか。」と始まりますが、その「知恵」が不思議な人格的存在として語り始め、そのお方は、万物の造られるまえに主とともに存在し、主とともに万物を組み立てたお方であると告げられています。

8:22 【主】は、その働きを始める前から、
 そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。
8:23 大昔から、初めから、大地の始まりから、
 わたしは立てられた。
8:24 深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、
 わたしはすでに生まれていた。
8:25 山が立てられる前に、丘より先に、
 わたしはすでに生まれていた。
8:26 神がまだ地も野原も、
 この世の最初のちりも造られなかったときに。
8:27 神が天を堅く立て、
 深淵の面に円を描かれたとき、
 わたしはそこにいた。
8:28 神が上のほうに大空を固め、
 深淵の源を堅く定め、
8:29 海にその境界を置き、
 水がその境を越えないようにし、
 地の基を定められたとき、
8:30 わたしは神のかたわらで、
 これを組み立てる者であった。
 わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、
8:31 神の地、この世界で楽しみ、
 人の子らを喜んだ。

  新約聖書になると、さらに啓示が前進し三位一体の真理があきらかにされて行きます。ヨハネ福音書1章。旧約聖書では、神とともにいます「知恵」と呼ばれましたが、こちらでは神とともにいますお方は「ことば(ロゴス)」と呼ばれています。

  1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 さらに、主イエスは世界を創造なさる前から、御子と御父とは愛の交わりのうちにあったことを明らかにされました。ヨハネ17章

17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。


17:24 あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

 父は子を愛し、子は父を愛します。父と子を結ぶものは愛です。ある古代の神学者は、「愛する者」「愛される者」そして「両者をむすぶ愛」の三位一体の謎を理解しました。愛は聖霊であるということです。

 まとめますと、神は絶対者であるので唯一のお方です。同時に神は人格でいらっしゃるので、その唯一のお方のうちには、愛する者、愛される者、両者を結ぶ愛の三位一体があるということになります。聖書に、「神は愛です」とあります。唯一絶対の神が愛であられるということは、すなわち神は三位一体であられるということを意味しています。
 まことの神は唯一の絶対者ですから恐るべく、また頼りがいがあるお方です。まことの神は父と子と聖霊の愛の神でいらっしゃいますから、私たちはこのお方の愛にすがって生きることが出来るのですし、祈ることができるのです。
 わたしたちは霊とまことをもって礼拝の生活を生きてまいりましょう。