苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

☆アブラハムの生涯 (1〜14)未完

<注> アブラハムの生涯を物語風にしてみる試みです。『通信小海』とブログに連載したものを、今回まとめてここに置いておくことにしました。実は、HPの「牧師の書斎」の更新のやりかたを忘れてしまったんです。
 よろしかったら、読んでみてください。3回分ほど未完のままですが、いつか書きたいと思っています。




1 旅立ち

 テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。
これはテラの歴史である。
 テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。
ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。
アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。
 サライ不妊の女で、子どもがなかった。
テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。



「主はアブラムに仰せられた。
『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』
 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。・・・アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。」創世11章26−12章4節

 聖書を開いたことのない人も、アブラハムという名はどこかで聞いたなと思われるのではないだろうか。米国史上最も偉大な大統領の名がアブラハム・リンカンだった。紀元前二千年中近東に現われたアブラハムという名は、民族と時代を超えてこのように偉大な名となったのである。ユダヤ教徒にとっても、イスラム教徒にとっても、キリスト教徒にとっても、アブラハムの名は偉大な名である。これは神の約束の成就だった。もっともこの人物の元の名はアブラムといって、後にアブラハムという名を神からいただくことになる。
 アブラハムイスラエル民族の始祖となり、今では世界の民族を超えて神を愛する人々から「信仰の父」とも呼ばれる。今回から、このアブラハムの生涯をご紹介して行きたい。
 アブラムがこの世に生を享けたのは、紀元前二千年、ペルシャ湾に望む商業都市ウルでのことだった。ウルはシュメール人が、ユーフラテス川のほとりに築いた世界最古のメソポタミア文明の都であった。考古学者の発掘によれば、シュメール人はこの地に紀元前3500年頃には街を形成していた。シュメール人は、人類最初の文字である楔形文字の発明者である。アブラムが生まれた紀元前二千百年頃、ウル第三王朝の創始者ウル・ナンムによって巨大な古代都市となって繁栄をきわめていた。市街地は、高さ8ートルの城壁で囲まれていて、城壁の外は一面の麦畑だった。川が街のすぐそばを流れ、船着き場には船が往来している。街は巨大な神殿ジッグラトを中心に、東西6090メートル、南北1030メートル。ウルの周辺には20万人もの農民が葦造りの家に住んで、城壁内の庶民の家は日干し煉瓦で造られていた。人口はおよそ20万から36万と推定されている。
 経済的に栄えるこのウルの町は、しかし霊的には暗黒に閉ざされていた。城壁に囲まれた町の中心にそびえる階段状ピラミッド、ジッグラドの頂には月の神々を祀る神殿があり、そこでは神々の像の前で神殿娼婦や男娼たちが豊作祈願と称してみだらな儀式を行ない、人身犠牲も捧げられていたのである。
 そんな都市にありながら、ノアからセムへと受け継がれた創造主への信仰は、細々とアブラムの家にだけ受け継がれてきていた。ある日、アブラムの父テラが一族を率いてウルを旅立ったと創世記には記されている。年表に照らしてみると、この旅立ちの背景には、ウルの陥落と第三王朝の滅亡、そして、アブラムの弟ハランが死が関係していたように推測される。紀元前2004年、東方のイラン高原からエラムの軍隊が攻め寄せ、繁栄を誇ったウルは滅ぼされてしまった。この時に、神からテラあるいは息子アブラムに、約束の地へ移住せよということばがあったのだろう。大国家都市ウルの滅亡と息子の戦死という経験をして、一族は重い足をひきずるようにしてユーフラテス川のほとりを遡行した。
 けれども、チグリス・ユーフラテス両河の源流地カランまで来ると、なぜか父テラはこの地に落ち着いてしまう。そして、父はここで生涯を閉じる。カランの地にも栄えた都市国家があって、居心地がよかったからかもしれない。
 父がカランで果てた時、アブラムはすでに七十五歳。いかに当時の人が一般に長命であったとはいえ、すでに功成り名を遂げた年齢である。けれども、ある日、彼は神の声を聞く。それが冒頭に記したことばである。
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」  耳を疑ったであろう。耳と言っても「心の耳」である。ほかの人に聞こえたわけではない。それは言わば鼓膜の内側から響く声なのだった。最初は気のせいだろうとアブラムも思った。しかし、いくら否定してみても、その声ははっきりとアブラムに対して命じるのであった。
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」
 アブラムがこのことばを聞いたのはカランであるのに、「生まれ故郷を出て」といわれたのは、ペルシャ湾岸からカランあたりまでのメソポタミア全体が一つの地域とされ、アブラムの故郷と認識されていたからだろう。ともかく、あのことばは単に地上の旅立ちを命じることばではなかった。それはアブラムに古い生き方から、新たなる生き方への旅立ちを命じる神のことばであった。「アブラムよ。今まであなたは、あなたの親兄弟、親戚、隣人といった人々の中で守られ、あるいは彼らの顔色をうかがって生きてきた。しかし、これからは万物の創造主であるわたしに従って生きるのだ」と。
 三浦綾子さんのエッセー集に次のような趣旨のことが書かれていたと記憶する。他者中心の人生は卑屈なものになってしまう。さりとて、自己中心の利己的人生は醜悪なものとなってしまう。人はただ神を中心に生きるとき、美しい人生を送ることができる。人の顔色をうかがい、ただ波風が立たなければよいと思って、ひたすら自分を押し殺して生きていると、後の日に「いったい自分の人生ってなんだったんだろう。」ということになってしまうだろう。また、逆に、「私の人生は、私のものだ。どんな生き方をしようと私の自由だ。誰にも文句は言わせない。」というような生き方は、まったく醜いものである。
七十五歳にもなるアブラムが、神のことばに従って旅立ちの決断をしたとき、おそらく周囲の人々は、まず驚き呆れたに違いない。ある人々は「アブラムじいさん、とうとう神に熱心になりすぎて気が狂っちまったぜ。」とあざけったりしたことであろう。もっとアブラムに身近な人々は、さしずめ「殿!ご乱心あそばせられましたか?」と反応しただろう。彼には一声かければ動く男たちが三百人ほどいたから、男たちの家族まで合わせれば、アブラムの決断の影響を受けなければならない一族郎党は総勢二千人ほどもいた。彼の立場は、いわば中堅企業の社長さんのようなものだった。アブラムの決断はおそらく周囲の人々には「なんと自分勝手な!」と映ったのである。
 けれども、アブラムの旅立ちは、一見自己中心に見えたが、実は、神中心の人生への旅立ちであった。だから、当面は多くの人々を当惑させることになったが、長い目で見ると、彼の一族ばかりか、世界のあらゆる民族に対して神の祝福をもたらす結果を生んでいくことになる。
二千年後、アブラムの家系にイエス・キリストが誕生し、その後さらに二千年間、イエスの福音が宣べ伝えられて世界中の数え切れない人々が、イエス・キリストとの出会いを通して、絶望から希望へ、死からいのちへ、闇から光へとその人生を移していただいたのである。
 アブラムの信仰の旅立ちへの祝福の約束は、みごとに成就した。
「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
 人生には時に旅立ちがある。その旅立ちを万物の主に導かれて決断できる人は幸いである。


ウルの町

2 エジプトへ


 アブラムは神の召しにこたえて、妻のサライ、甥のロトと一族郎党を引き連れて旅立って、荒れ野の道を歩いて約束の地カナンにはいった。東にベテルと西にアイという都市国家のある間の地に到着すると、彼は導いてくださった主に感謝して祭壇を造り礼拝をささげる。アブラムの旅は礼拝に始まり礼拝に終わった。
 さて天幕を張り、井戸を掘って、新しい地に生活の基盤を築こうと一族が励み始めた。ところがその矢先、この地をかんばつが襲う。うらめしいほど青い空にはひとひらの雲さえ見えず、ただ毎日灼熱の太陽が照りつけると、やがて大地はひび割れ、割れた土は砂となって吹き飛ばされてしまう。半遊牧のアブラム一族は、羊・やぎ・らくだどもに食わせる草にもこと欠くようになり、井戸をのぞきこめば水位は日に日に下がりつつあった。
 こうなると一族の中からも不平と不安のつぶやきが聞こえてくる。「ご主人様についてこんな地にやって来たはいいが、ここで飢え死にか。」と。周囲には動揺を見せまいと努めているアブラムも、内心「はて、どうしたものか・・。」と焦りを感じ始めた。故郷での安穏とした生活を棄てさせて、老若男女およそ二千人をこの地に連れてきた族長としては、当然のことではあった。ところが聖書には、この時アブラムは祭壇の前で神を見上げて祈ったという形跡がない。
 アブラムは神を見上げて祈るのではなく、周囲を見回した。カナンの地の人々は、この地を飢饉が襲うと南のエジプトに避難することを常としていた。エジプトの地は大河ナイルに潤されていたからである。アフリカ奥地の熱帯雨林から水を集めて来るナイルは旱魃でも涸れなかった。
「やむをえまい。エジプトに避難しよう。」アブラムは、そう決断して約束の地を後にしてしまう。


エジプトへくだる道は、どこまでも赤茶けた土と青い空だった。けれども、国境の関所が近づくにつれて、アブラムの胸のうちに黒い雲がひろがりはじめた。アブラムは妻サライに言う。
「聞いてくれ。おまえはたいそうな美女だ。」
美女と言われれば悪い気はしない。確かにサライの肌は六十を越えた女とは到底思えぬはりがあり、物腰には成熟した気品と魅力があった。彼女は『あら、こんな旅の途中に、この人はなにを言い出すのかしら。』といぶかった。ところが次に夫の口から飛び出したのはとんでもない言葉であった。
サライ。好色なエジプト人は、きっとお前を欲しがって、私を殺すにちがいない。頼む。もし問われたら、私の妹だと言ってくれ。」
唖然としたサライは返すことばがなかった。約束の地に旅立つときには、長年連れ添ったわが夫ながら、さっそうとして威厳に満ちた族長アブラムに惚れ直す思いがしたものだが、今、その夫は、妻の陰に隠れてわが身を守ろうとする、なんとも小汚い老人にすぎなかった。
神の約束をしっかり握っていたとき、アブラムは勇敢で、神以外に恐れるものがなかったが、この世の人々と調子をあわせて、そそくさと神の約束の地を棄ててしまったとき、アブラムは神からの力を失ってしまったのである。
 アブラムは信仰の父と呼ばれる。彼は信仰によって神にしっかりとつながっている時には、誰よりも勇敢で威厳があり、思慮深く柔和な人だったが、ひとたび神の約束を棄ててしまうと、見る影もないほど臆病でちっぽけな人になってしまうのであった。そうであるだけに、アブラムを通して生ける神の偉大さが見えてくるのだが。


 夫が妬くほど女房もてもせずと言うのが相場であるが、サライの場合はそうではなかった。事実、国境の関所の役人はただちにサライの美しさに目をとめた。ハム族にくらべれば肌ははるかに白く、高い鼻梁に、大きな深い瞳に長いまつげといったセム族のサライの美貌はエキゾチックでもあったのであろう。
 「この女はおまえの妻か?」役人たちは問うた。「いいえ。わが妹でございます。」とアブラム。すると、役人たちはにやりと笑ってなにやら小声で話し合ってから、「都に居を定めるがよい。家に案内させよう。しばらくそこで待て、追って沙汰をする。」と言った。
 ほかの人々とは別扱いにされ、いったいなにごとかとアブラムとサライはいぶかしく思った。数日後、宮廷からものものしく輿がよこされて来た。使者はひざまづくアブラムに権高に言った。
「アブラム。幸運な男。そちの妹はエジプト王ファラオのもとに仕えることになったぞ。よいな。ありがたく思え。」
サライをエジプト王の大奥に召し入れようと言うのである。
アブラムは奥に下がると、妻の目も見ずに、ことの次第を告げた。サライは青ざめ、ふるえる声で夫に問うた。「そんな。あなた、それでいいのですか。」すると、アブラムはくるりと背を向けて、「一族のためだ。」と低い声で言って、肩を落として妻の天幕から出て行ってしまった。



3 出直し


 妻サライが宮廷に召し入れられてまもなく、エジプト王ファラオからアブラムに屋敷と多額の金品が下賜され、きのうまで難民だったアブラムは、にわかに多くの家畜を持つ大尽になった。エジプト人たちは、「美人の妹のおかげでお大尽。なんと幸運な人よ。」とうらやましがった。エジプトの空は相変わらず雲ひとつないが、アブラム自身は鬱々とし、また僕たちの噂に聞き耳を立ててはいらだっていた。
「いったい誰のために、わしが妻サライを王にくれてやったと思っている。一族のためではないか。なのに、みんなでわしを馬鹿にしおって。貴様もわしを臆病者と心の中で笑っておるのだろう。」
アブラムは、しもべエリエゼルにそんな言葉を投げつけた。アブラムにしてみれば、飢えに瀕してこの地にのがれてきた一族が生き延びるためにこそ、妻を妹と偽り、彼女が大奥に連れて行かれるままにしたのである。ところが、その結果、これまで尊敬の目で自分を見ていた一族の者たちが、今は自分を軽く見るようになったように感じられた。しもべたちが小声で何事か話していると、自分のことを噂しているように思え、笑い声が聞こえると、みんなして自分のことをあざわらっているように思えてならないのである。「ご主人と来たら、いのち欲しさに、奥さんを大奥にやっちまったんだよ。見損なったよ。あれでも男かねえ。」と。
 ファラオから届いた美酒を真っ昼間から浴びるように飲んでも、アブラムの舌には苦かった。夜がふけて床に着けば「今ごろサライはファラオの寝台にいるのか・・・。」と想像すると、アブラムは激しい嫉妬と怒りで胸をかきむしった。しかし、彼にはどうすることもできない。神の約束を捨ててこの地にのがれて来たアブラムには、もはや立ち直る気力も、妻を奪い返す手立てもなかったのである。


 ファラオの宮廷は、しかし、サライを召し入れた日からたいへんなことになっていた。女房たちがいっせいにからだに変調をきたして、月の物が止まらなくなって枕を並べて寝込んでしまったのである。彼女たちはエジプト王の世継ぎを生み出すべき器であるから、ことは深刻だった。
ファラオの命令で宮廷の侍医が調べに入ったが原因は不明。ただ不思議なことに、ごく最近召しいれたカナンからやって来たアブラムという男の妹サライという女だけは、この病にかからずにいることが判明した。
ファラオはこれは何かあると、ピンと来た。そして最近召しいれたサライというセム人の女を呼び出して事情を問いただした。
「そのほう、何か余に隠し事があるであろう。悪いようにはせぬ。話してみよ。」
ファラオのことばに促されて、サライはことの次第を話した。アブラムは特別に神に約束を与えられた人であり、自分は実はアブラムの妻であること、そして、このたびの宮廷での災疫は、サライの身を守るために、アブラムの信じる主なる神が起こしたものであると思われること。また、アブラムに害を加える者には、神は害を加え、アブラムを祝福する者を神は祝福なさるという約束のことばが与えられていることなどを。
 エジプト王は、宮廷を襲った災厄が神の御手によると知り、恐れおののき、アブラムを呼びつけて怒りに満ちた口調で言った。
「そちは余になんということをしてくれたのだ。なにゆえサライがそちの妻であると告げず、そちの妹であると言ったのか。それゆえ、余はサラをわが妻として召しいれてしまったではないか。そのせいで、余の宮廷は恐るべき神罰をこうむってしまった。もうたくさんだ。アブラム。一族郎党ひきつれてこのエジプトから立ち去るがよい。」
こうしてアブラムはエジプトを去ることになる。しかも、神からの災厄を怖れたファラオは、アブラムに与えた財産には指一本触れることなく、彼をエジプトから立ち去らせたのである。


約束の地カナンへの帰路をたどりながら、アブラムは胸の内でつぶやいた。『いったい、私はなんという臆病者だったのか。長年連れ添った妻を差し出して、我が身の安全を図ろうとしたとは。』そのつぶやきは、やがて神への祈りに変わっていく。「主よ。私はいつどこで道を間違えたのでしょうか。」
 ふり返ってみれば、約束の地カナンに到着したとき、アブラムは主なる神の前に祭壇を築き、礼拝をささげた。そして、神に導かれてこの地まで来たアブラムは、これからも神のみことばに従うことを誓ったのである。ところが、約束の地での生活に慣れるうちに、アブラムはなにかと忙しく、礼拝をおろそかにするようになった。ちょうどその頃、飢饉がこの地を襲った。アブラムは慌てふためいて神にうかがいを立てることもせず、また神の約束も忘れ、この地の人々と同じようにエジプトに下ってしまったのだった。神のみこころを尋ねず、この世の人々の知恵にしたがった時、アブラムは過ちを犯したのである。
エジプトから戻ったアブラムは、カナンの南部ネゲブに到着しても、そこに留まらず、さらに旅を続けて、北のべテルまでやってきた。「そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。そのところでアブラムは、主の御名によって祈った。」とある。アブラムは原点に立ち返って、出直すことに決めた。神とともに始めた新しい人生の旅だったのに、神のことばを待たず、自分勝手に先走ってあやまちを犯し、長年連れ添ったたいせつな妻を裏切ってしまったのだから、ゼロから出直すほかない。
 アブラムは石を積んだ祭壇の前にひれ伏して、長く長く祈った。「主よ。私はあなたの約束を捨て、妻を裏切り、大きな罪を犯しました。それにもかかわらず、あなたは私をあわれんで妻を救い、我らをこの地に戻してくださいました。」悔恨の涙がぽたぽた落ちて赤茶けた地面を黒くぬらした。
長い祈りが終わって立ち上がったアブラムの胸にうちには、久方ぶりに平安と喜びと力が戻ってきていた。忙しさにかまけて、神への礼拝をおろそかにしているうちに失ってしまっていたあの平安であった。父祖の家を出て、神を中心に生き始めたときに与えられたあの喜びと力だった。
 ふり返ると、そこにサライもひざまづいていた。彼女の目も濡れていた。アブラムは言う。
サライ。すまない。出直したいのだ。」
妻は微笑んで、静かにうなずいた。



4 捨ててこそ

 「おじさん。ぼくもきっと何かお役に立つはずです。連れて行ってください。」
 アブラムが故郷を旅立つとき、甥のロトが志願した。子のないアブラムは、早く父親を失ったロトを息子のようにかわいがっていたからである。ロトのことばに嘘はなかったが、同時に、彼の胸のうちには、旅に出て一旗上げたいものだという野望もひそんでいた。
 約束の地に着いてほどなくかんばつに襲われ、アブラム一行はエジプトに避難し、ロトも同行する。難民として訪れたエジプトだったが、先に見たように、思いがけぬなりゆきでアブラムは王に厚遇され、ロトもまたこれによって一財産を得た。こうしてアブラムとロトは、牛、ロバ、羊、やぎ、らくだをたくさん持つようになった。
 ところが、カナンの地に戻ると、アブラムとロトの羊飼いたちの間に水と草をめぐって争いが起こる。放牧を生業とする人々にとって、草地と水場は生命線である。かつて貧しく家畜の数の少ないうちは仲良く暮らすことができたのだが、富むようになったとき、そうも行かなくなった。「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎みあうのにまさる」のであるが(箴言十五:十七)。
双方の羊飼いにこぜりあいが続いていたある日、アブラムは、その争いを、カナン人たちが遠巻きににやにやしながら眺めているのに気づいた。「あの新入りどもは、聖なる神の民を気取っているが、やっぱり背に腹は代えられないようだ。すきあらば、やつらの家畜を奪い取ってやろう。」とカナン人たちは舌なめずりしているに違いない。
アブラムは心を痛めた。「われらの争いが、主なる神の御名をはずかしめることになってしまった。申し訳ないことだ。どうすれば、争いを避けられるだろう。もはやロトといっしょに住むには、無理がある。別れて暮らすほかあるまい。さて、高地は水と草が少ない。さりとて、低地は緑豊かだが、罪深い町ソドムとゴモラが気になる。どうしたものか。・・・神にお任せしよう。」と。
 アブラムはロトを誘って、カナンの地が見渡せる高いところに来た。ロトの表情にはこの交渉で決して損はすまいという警戒心が現れている。アブラムはおもむろに口を開いた。
「ロトよ。どうか私とおまえとの間、また私の牧者たちとおまえの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はおまえの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしおまえが左に行けば、私は右に行こう。もしおまえが右に行けば、私は左に行こう。」
ロトは一瞬驚いたが、すぐに胸のうちでつぶやいた。
『ふふん。「とんでもない。叔父さんこそ先に選んでください」と俺が言うのを期待しているんでしょうが、叔父さん、そうは問屋が卸しませんよ。』と。
ロトはヨルダン川が潤している緑したたる低地を舌なめずりをするようにして見回して言った。
「おじさん。じゃあ、ぼくは低地のほうに行かせてもらいますね。これまで、お世話になりました。」
そしてロトは、家族と家畜を引き連れて、さっさと緑豊かな低地へと向かってしまう。アブラムはロトの背中に向かって、「低地にはソドムがある。深入りせぬように気をつけるのだぞ。」と、呼びかけた。ロトは、背中を向けたまま右手を振って、群れを引き連れ軽い足取りで行ってしまった。
 遠ざかっていくロトを見送っていると、アブラムの鼓膜を内側から打つ、あの主なる神の御声が聞こえてきた。
「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
 アブラムは、甥に緑豊かな低地を取られて自分は草もろくに生えていない荒地で羊どもを養わなければならなくなった。アブラムのしもべたちはお人よし、間抜けと笑うかもしれない。けれども、主なる神は、アブラムに東西南北見渡す限り、この地全部をアブラムに与えると約束されたのである。その上、自分の子がなく、息子代わりとも思っていた甥にも去られてしまったアブラムに、主は数え切れないほどの子孫を与えるとまで約束された。
アブラムは、この約束を握って、天幕をヘブロンの地に移し、そこにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに祭壇を築いて神礼拝を中心に据えた生活を始める。今のアブラムは、飢饉に右往左往して神の約束の地を捨ててエジプトに逃げた、かつてのアブラムではなかった。アブラムは、目先の損得に惑わされず神にゆだれば、捨ててこそ得ることを学んだのである。
これは私のものだ、誰にも渡すものかと言わんばかりに、握り締めていると、心は焦りと不安にさいなまれてしまう。握っていた手を開いて離すと、神が改めて与えてくださるということはしばしばあることではないか。



5 桶狭間
 


 紀元前二千年、世界文明の先進地はオリエントだった。オリエントは毎年大河ナイルが運ぶ沃土で農耕文明を発達させたエジプトと、ティグリス・ユーフラテスという両大河にはさまれたメソポタミアという二つの大文明圏と、両者をつなぐ回廊としてのシリアないしカナン地方から成るいわゆる肥沃な三日月地帯であった。カナンの地は常に東西の両文明圏に挟まれて、どちらにつくかという立場に置かれていた。近代ヨーロッパでいえば、東はロシア、西はドイツという強国にはさまれたポーランドのような立場にあったわけである。
アブラムはメソポタミア都市国家ウルの出身で、父とともにカランの地に移り住んだ後、今は、カナンに住んでいる。当時カナンの低地には、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイム、ベラといった都市国家群が並び立っていた。カナンの都市国家の王たちは十二年間西方のメソポタミアのケドルラオメルという宗主に貢物を納めてきたが、国力をたくわえるにつれて、独立を志すようになっていった。そこで、彼らはカナン都市国家同盟を結び、ケドルラオメルに対して反旗を翻した。以後、我々は貴国に貢を納めるつもりはないという意思表示だった。
 当然、ケドルラオメルは怒った。しかし、自らの手勢だけでカナン同盟軍と戦うのは不利と見て、近隣のメソポタミアの大王たちを誘い込み、連合軍を編成し、第十四年目カナンの地に遠征をしてきた。カナンの弱小な同盟軍はメソポタミアの大連合軍の敵ではなかった。鎧袖一触、カナン同盟軍は壊滅し、ソドムとゴモラは陥落、全財産と全食糧を略奪され、住民は奴隷とするために連れ去られてしまう。
 ところで数珠繋ぎにされた捕虜の列の中にアブラムの甥ロトと家族が含まれていた。
「ああ、アブラムおじさんが、別れのとき、『神の裁きがある。ソドムに近寄るな』と警告していたのはこのことだったんだなあ。」ロトは胸のうちで嘆いた。彼はソドムの近くに天幕を張り、家畜を放牧していたが、やがて妻や娘たちがソドムの派手で淫蕩な文明的生活に惹きつけられ、けっきょく、一家で町の中に住み着いてしまったのだった。西方の大軍が攻めてくると聞いたとき、すぐに逃げ出せばよかったものを、「せっかく手に入れた屋敷や家具やたくさんのお着物などを、どうして置いて行けましょう。ちょっと待ってくださいな。」という妻に引き止められて、ぐずぐずしているうちに戦が始まり、家族もろとも捕虜とされてしまったのである。
ロトは長々と続く捕虜の数珠の一粒として、日中五十度を超える砂漠の道を何百キロも徒歩で行かねばならない。妻と二人の娘も自分も、生きてメソポタミアにまでたどりつける可能性はいくばくもあるまい。ロトの胸は不安と悔恨でいっぱいだった。


 さて、ロトのしもべのひとりが番兵の目を盗んで捕虜の列から抜け出し、命からがらマムレの樫の木にあるアブラムのキャンプに駆けつけて通報した。
「アブラムさま。わがカナン同盟軍はメソポタミア連合軍と衝突すると、たちまち王は逃げ出して総崩れ。ソドムとゴモラは陥落し、全財産と、全住民は略奪されました。甥御のロト様も捕虜とされてしまわれました。」
 予想していたこととはいえ、アブラムは「何をぐずぐずしていたのだ。ロト。」と歯噛みしないではいられない。後ろ足で砂をかけるように、恩義あるおじのもとを去った甥ではあったが、それでも捨て置くわけにも行かない。アブラムは腹を決め、一族郎党に召集をかけると、たちまち屈強な男たち三百十八人を得た。とはいえ、メソポタミアの大軍団に比べれば、お話にならないほど多勢に無勢であった。
だが、アブラムには勝算があった。すでに帰途にあるメソポタミア軍は莫大な戦利品の荷駄と多くの捕虜を引き連れているゆえ、もはや軍としての敏速な運動はできない。烏合の衆にすぎない。また連戦連勝の軍隊はおごって気が緩むものである。事実、通報に来たロトのしもべによれば、メソポタミア軍はこのところ毎夜、勝利の美酒に酔いしれ、深夜には歩哨も立てず泥のように眠りこけているという。
アブラムは手勢を率いて、泥酔のあげく寝静まったメソポタミア軍に対して夜襲をかけた。しもべたちは黒い影となって敵陣深く侵入し、ひそかに捕虜たちの縄を解き、すべて整え終えてから、鳴り物つきで猛々しくときの声を上げた。作戦は図に当たった。連合軍の将卒どもは暗闇の中でなにが起こったかわからず、恐怖にとらわれて、同士討ちを起こし、算を乱して千鳥足で敗走したのである。アブラムは夜明け前まで敵軍をカナン北東のダンまで追撃し、そこで作戦を終えた。完勝だった。
アブラムは、みごとソドムとゴモラから奪い去られた全財産とすべての捕虜と奪回した。もちろんそこにはロトとその家族たちも含まれていた。


アブラムが王の谷と呼ばれるシャベの谷までやって来ると、ソドムの王ベラが紫に金糸で刺繍したきらびやかな王衣に、ありったけの指輪やネックレスを身につけ、毒々しい化粧までして威儀を正して、アブラムを迎えに来ていた。昨日まで新参の遊牧民の族長にすぎなかったアブラムは、一夜明けて、輝かしい凱旋将軍となっていた。ソドムの王が、「王の谷」でアブラムを迎えたのは、今後はアブラムをカナンの諸侯の一人として遇しようという意思の表現である。カナンの紳士連へのデビューのチャンス到来である。
だが、これは悪魔の誘惑だった。ソドムの腐臭は天にまで届いていた。メソポタミアとエジプトの間を往来する隊商は、東西の文物をこのカナンの地の諸都市にもたらし、特にソドムとゴモラの風俗は爛熟を通り越して腐熟していた。彼らと付き合いをしていくならば、早晩アブラムもまた聖なる神のみこころの道から肉欲の谷底に転落してしまったであろう。
ところが、そこにシャレムの王メルキゼデクという不思議な人物が現れた。メルキゼデクとは「義の王」という意味である。彼は真の神に仕える高潔な祭司王であった。メルキゼデクは、権威をもってアブラムにパンと葡萄酒をふるまい、かつ彼を祝福する。
「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られたいと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」
 アブラムは、はっとした。ソドムの王は「凱旋将軍アブラムに誉れあれ」とほめそやすであろうが、祭司王メルキゼデクはアブラムではなく、彼に勝利をもたらした神に栄光を帰したからである。かくて、アブラムは、得意の絶頂にある者をなによりの好物とする悪魔の毒牙を危うく免れた。
 唇に紅を引き、目の周りを黒々と縁取って淫靡な化粧をほどこし、金のイヤリングをしたソドムの王ベラは赤い舌をちらつかせながら言った。
「人々は私に返し、財産はあなたが取ってくださいな。」
しかし、アブラムは胸を張って応じた。
「私は天と地を造られた方、いと高き神に誓う。糸一本でも、くつひも一本でもあなたの所有物から私は何一つとらない。それはあなたに『アブラムを富ませたのは私よ』と言わせないためだ。」
 ちなみに、メルキゼデクという謎の王は、受肉以前のロゴス、イエス・キリストではないかと思われる。



6 いのちがけの約束
 

メソポタミアの王たちの連合軍はほうほうの体で去っていった。それから数日後の深夜、アブラムは揺れるともし火を見つめながら自分の天幕のなかで思いを巡らしていた。
『ロトは、今度の戦争で懲りて、もはやソドムの町に住むことをやめるのかと思っていたが、咽もとすぎればなんとやらか・・。メソポタミアの王たちが雪辱を期して再来せぬともかぎらぬのに、さてさて心配なことだ。』甥のロトは、アブラムに救出されると、性懲りもなく再びソドムに住むようになったのである。
しかし、甥のロトのこと以上にアブラムの心を塞がせていたのは、自分と妻サラの年齢のことであった。神の約束を受けて、故郷を旅立ったとき、アブラムは七十五歳、妻は十歳下であった。あれからすでに数年がたっている。神はアブラムから偉大な国民が出現すると約束され、夫婦それなりに努力もしているが、いまだサラにはその兆候はない。無理もない。夫も妻も年齢が年齢である。
エジプトで思いがけず富を得て、また今回の戦いの勝利でこの地での名誉をも得ることができた。けれども、どれほど富があろうと、どんな名誉を得ようと、いまさらこの年寄りになんの役に立とう。アブラムは「世継ぎとなる子どもがいなければ、すべて無駄になってしまう。わが家の筆頭のしもべエリエゼルに相続させるほかあるまい。」とつぶやいた。と、突然、アブラムの鼓膜を内側から主なる神の声が打った。
「アブラムよ。恐れるな。
わたしはあなたの盾である。
あなたの受ける報いは非常に大きい。」
 アブラムは答えた。
「神よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
 すると、声は言った。
「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。天幕から外に出よ。」
 神の声にしたがってアブラムが外に出ると、さらに声は続いた。
「さあ。天を見上げよ。星を数えることができるなら、それを数えるがよい。」
 見上げると漆黒のビロードに惜しげもなくばらまかれたダイヤモンド。アブラムの口から思わずほおっとため息が出た。数えられるわけがない。すると、声は言った。
「あなたの子孫はこのようになる。」
 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。自分も、妻のサライも枯れかけた老木だ。だが、そもそも主は、万物にいのちを賜っているお方である。そのお方が、ご自分の作品である星空を見せて、あなたの子孫はこれほどに増えると仰せになるのである。ほかの誰でもない、このお方の約束なのだ。アブラムは、信じた。
 主なる神は、アブラムの信仰をお喜びになった。そして、聖書は、「神はアブラムの信仰を義と認められた」という。「義と認める」というのは、聞きなれない表現であろう。聖書で「義」というのは、神と正しい関係にあるということを意味する。だから「主がアブラムを義と認めた」というのは、神はアブラムが神と正しい関係にあることを承認なさったということである。
 普通に考えれば、子どもが生まれることを期待できる状況ではまるでなかった。しかし、信じうる有利な状況がないにもかかわらず、アブラムは子が与えられると信じた。なぜなら、この約束をくださったお方がほかならぬ真実な神であったからである。その主のことばにアブラムは賭けた。ここに、アブラムが「信仰の父」と呼ばれるようになった理由がある。
          

 さて、主はアブラムに約束された。「わたしはこの地をあなたの所有としてあなたに与える。」
アブラムは「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょう。」と答えた。すると、主はアブラムに命じられた。「ここに三歳の牝牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持ってきなさい。」アブラムは言われるとおりにして、これらを二つに裂いて向かい合わせにした。これは当時のオリエント社会での契約の様式だった。約束をする者は、<もしこの約束を破ったならば、自分はこれらの動物たちのように二つに引き裂かれてもよい>という意味で、これら引き裂かれた動物の間を通り過ぎて見せるのである。
 アブラムはこれから何が起こるのかと待っていた。日が西の山に落ちると、主の声があった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」
 そのとき、アブラムの目の前に煙の立つかまどが出現した。見ていると、不思議なことに燃え盛る炎は、あの二つに裂かれたものの間を通り過ぎて行くではないか。ようやくアブラムは、この出来事の意味を悟った。
「主よ。あなたはご自分の約束を、ご自身の命をかけて守ってくださるとおっしゃるのですか・・・。悟らない私にわかる見える方法で、この約束のたしかさを証してくださったのですか。」
アブラムは震えるような思いで裂かれたものの間をすぎてゆく不思議な炎――神の臨在――を見つめていた。
事実、アブラハムの孫ヤコブの代にアブラムの子孫はエジプトに移住して寄留者となり、四百年後、紀元前千五百年モーセの時代にエジプトを脱出してこの約束の地に帰ってくることになる。主の約束は、数百年の後に成就したのである。

「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」第二テモテ二:十三



7 焦るとき


 カナンの地に来て十年が経ち、アブラムは八十五歳、妻サライは七十五歳となっていた。神の約束によれば、アブラムが神にしたがってカナンに行けば、彼は偉大な国民となるはずであった。それでここ十年、老いた夫婦は、子を得るためにそれなりに努力もしてきたが、サライには一人の子どころか妊娠の兆候さえ皆無だった。サライは焦りを感じた。「私が産まず女なのは、もともとのこと。でも、このままでは夫のアブラムも子種が尽きてしまう。」
 その時、サライは周囲の人々を見回した。当時オリエント世界の人々は、正妻から子を得られない場合には、「借り腹」をして子を得るという習慣がなされていた。そんなことは、アブラムもサライもとっくに承知していたが、アブラムは当時としてはめずらしく若い日から連れ添ってきた妻以外の女に触れずに来たのであり、妻サライもそのことを感謝していたのであった。
けれども、サライは自分が生まず女であることで、アブラムの血統が絶えてしまうことはなんとしても避けたいと思った。また、神が、アブラムを大いなる国民とすると約束され、かつ自分を生まず女にしておられるということは、神は自分にこらえよと求めておられるのではないかと解釈した。『私さえこらえれば、アブラムは子を得ることができ、神の約束も成就するのだわ。』サライは自分の感情を押し殺して、理性的に振舞おうと決心したのである。
 ある日、サライは夫に言った。「ご存知のように、主は私が子どもを生めないようにしておられます。どうぞ、私の仕え女ハガルのところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれましょう。」
 アブラムも実は同じことを考えなくはなかったが、自分からは言い出せずにいたのであろう。「うむ。わかった。」とサライのことばをすんなりと受け入れてしまう。
 ハガルという女は、浅黒い肌のなめらかなエジプト出身の女だった。サライは一族の棟梁となるべき男児を生むのであるから、利発で健康で腰骨の張った女を選んだ。サライはハガルにもちかけた。
「ハガル。おまえが私の代わりに、ご主人様のお子を産むのよ。・・・ただし私のひざの上に。」
一瞬、ハガルの目は大きく見開いたが、その目の光を見られまいとしてか、すぐに目を伏せ頭を下げると「おことばのままに」と答えた。
その夕方、自ら夫アブラムとハガルの寝所を用意するサライの心のうちには嫉妬の炎が燃えていた。その炎を押し隠して、ハガルに対して親切な女主人らしく振舞うのである。ハガルが沐浴を終え、椅子に腰掛けて長い髪をくしけずっていると、サライは自分がたいせつにしている香料の小瓶をとり「これを付けなさい」とハガルの手のひらに置いてやった。
西の山の端に日が落ち、闇が迫ると、サライはハガルのいる寝所にはいって行く夫の背を見送った。サライの胸のうちで一つのガラスの玉が砕けた。


 まもなくハガルはみごもった。日に日に彼女のおなかは大きくなっていく。八十五という齢になって、生まれて初めて自分の子が生まれようとしている。サライには悪いと思うが、アブラムはハガルの丸い腹を遠くから見てはこみ上げてくる喜びに、つい表情がゆるんでしまう自分を抑えられなかった。わが子を宿したハガルの身に万一のことがあってはならぬというわけで、ハガルに仕えるしもべたちを付けてやった。
胸と腹をそびやかせて歩き回るハガルは、サライの癇に障った。しかしサライは自らを省みることを知る賢い女である。ハガルが横柄な態度に見えるのは、自分の心持ちのせいだろうと最初は思っていた。だが事実、ハガルは主人アブラムの子を宿して増長していたのだった。
ある日のことサライがハガルを一言戒めたときだった。ハガルはふり返ると言った。
 「なにさ。お子を産むこともできないで、なにが奥方さまよ。ご主人様のお子を宿したあたしこそ奥方様と呼ばれる資格をもっているのに。」
 サライはハガルの横柄さにたまりかねて夫に矛先を向けた。「私に対するこの横柄さはあなたのせいです。ハガルは自分がみごもったので、私を見下げるようになりました。」
 アブラムは言った。「あなたの仕え女だ。あなたの思うようにすればよい。」
 夫の許可を得て、サライはなにかにつけハガルにつらく当たるようになった。夫から許可を得たサライは、日本風にいえば、ハガルの箸の上げ下ろしにまでネチネチと小言をいうようになった。いぎたないの、食事のマナーがなっていないの、目つきが悪いの、言葉遣いが下品だの、着物がはでだの、いや地味すぎるだのと指摘した。ハガルが少しでも不満げな顔をすると、「そんなことでわが一族の長の子を産むにふさわしい女といえると思っているの?」と手厳しい。しかも主人アブラムは少しも自分をかばってくれない。とうとう耐えきれず、ある日ハガルは大きなお腹を抱えて家を飛び出してしまう。
荒野の泉の水面に大きなお腹のハガルの姿が映っていた。サライのもとを飛び出しては来たものの、女奴隷の身のハガルに帰るべき実家などありはしない。パレスチナの太陽が容赦なくハガルの背を焼く。彼女は途方にくれてしまった。そこに、神の使いが現れて言った。
サライの仕え女ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」
彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」
御使いのことばは、ハガルに二つのことを教えている。「サライの仕え女ハガル。」というのは、ハガルが一体何者であるのかを告げることばである。おのが分を忘れてあたかも女主人のように思い込み、振舞っていたハガルに、自分をわきまえなさいというのである。あせって分を超えて自分を高く上げようとするのをやめよ。ことを人のせいにばかりするのをやめよ。このたびのことは、おまえのあせりと増長が原因だ、と。
 「あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」とはまた印象深いことばである。ハガルはどこから来たかを答えることはできたが、どこへ行くのかを知らなかった。逃げてきたからである。逃避の人生には目的がない。
 御使いは続けた。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
 御使いが去った後、ハガルはサライのもとに帰った。頭を垂れたハガルにサライは「顔を上げなさい」と言った。サライは驚いた。ハガルの表情がまったく変わっていたのである。高慢と苛立ちに満ちていた顔が、今は、穏やかな表情になっていた。サライは問うた。
「荒野で何があったの?ハガル。」
 ハガルは静かに答えた。
「私は神にお会いしたのです。」




8 一夫多妻の悲劇

「あれでよかったのか。だが、あの方法しかなかったではないか。しかし・・・。」
アブラムはまたつぶやいた。妻サライの女中ハガルから生まれた子イシュマエルは十三歳。背丈は父に迫り、声も低くなって多感な青年期にはいろうとしていた。我が子の成長ぶりに目を見張るアブラムはすでに九十九歳を迎えていた。長らく子を得なかったアブラムにとって、自分が血を分けた子が日に日に育って行くことは正直うれしかった。
だが手放しにイシュマエルをかわいがることも、イシュマエルを産んだハガルに優しく振舞うこともはばかられた。妻サライの目があるからである。当時の世界で行なわれていたように借り腹をして子を得るようにとアブラムに熱心に勧めたのは、サライ自身であったから、彼女が表立ってアブラムを非難することは少なかったものの、少しでもアブラムがハガルにやさしくしてやると、サライの表情はかたくなり、「どうせ私は石女(うまずめ)ですから。」とつぶやいた。この言葉を聞くと、アブラムの心は沈んでしまうのだった。ここ十三年間、夫婦の間の溝は深くなってきたように感じる。
旧約聖書には一夫多妻の例がいくつも出てくる。出てくるけれども、一夫多妻で万事うまく行ったという夫婦と家庭の例は、ただのひとつもない。一夫多妻の家族には、常に暗い陰が落ちている。アブラムの孫ヤコブは四人の妻の間の争いに右往左往して気苦労が絶えなかったと記されているし、複数の妻をかかえる英雄ダビデ王は異母兄弟間の殺人事件を発端に、自らの王座と生命も危うくなった。その子ソロモン王は政略結婚で周囲の国々から多くの妻をむかえたが、妻たちが持ち込んだ異教の偶像が罠となって、神の怒りを買い、ソロモンの死後、王国は南北に分裂してしまう。
旧約聖書はもろもろの実例をもって、一夫多妻制は夫婦を不幸にし、子どもを不幸にし、社会をも不幸にするという教訓を繰り返し、私たちに与えているのであろう。
エスは言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。 それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
神が夫婦二人を一体にされたのである。そこにいろいろな理由をつけて他の者を入れるならば、不信や混乱や不幸をも招き入れることになる。当時の社会では一夫多妻はごく普通の習慣であったが、アブラムが若い日から妻はサライひとりと決めていたのは、神のみこころを知っていたからであろう。けれども、妻に勧められてその禁を破ったときから十三年、アブラムは苦々しい経験をしなければならなかったのだった。

 



9 インマヌエル

 アブラムが九十九歳のとき、主は久しぶりにアブラムに啓示をお与えになった。神の啓示は曖昧な幻ではなく、明確なことばであった。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
 ひれ伏したアブラムにさらに主はことばを告げられた。
「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。・・・子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。(後略)」
 神はアブラハムが多くの国民の父となると言われた。この約束はアブラハムの子孫からイスラエル民族が出て、イスラエル民族のユダ部族ダビデの家系に、御子イエスが誕生することによってである。イエス・キリストの名はその後二千年間、世界のあらゆる民族・国語の人々に宣べ伝えられ、今、世界中のクリスチャンたちはアブラハムを「信仰の父」と呼んでいる。
 紀元前二千年にこの約束を聞いたアブラハムは、世界の片隅パレスチナの荒野に住む遊牧民の年老いた一族長にすぎなかった。しかし、約束をくださったお方は、世界の歴史を導かれる真の神であったから、その約束は実現した。聖書の神はよくできた神話やフィクションではない。歴史を支配する生ける神である。



10 知恵も力も尽きたとき


 厳しい日差しが、赤茶けたパレスチナの大地をじりじりと焼いていた。この日アブラハムの天幕はマムレの樫の木のそばにあった。彼はその入り口に腰掛けて、半月ほど前に受けたひさびさの啓示を思い出しながら、独り言をつぶやいた。
『サラに男の子が生まれると、神はたしかにおっしゃった。はじめはまさかと笑ってしまったが、今は信じる。・・・だがサライは信じてくれない。まあ信じられないのが普通か。ああ、だがこまったことだ。』
いくらアブラハムひとりが神の約束を信じても、妻も信じて同意してくれなければ、子をもうけることなどできはしない。サラはアブラハムに「あなたは九十九歳のお爺さん、わたしは八十九歳のお婆さん。何を今さら子どもを得ようなんておっしゃるんですか。もういいんですよ。あなた。」と言って、夫の手をやさしく握り返して、微笑んだ。
 サラは傷ついていた。若い日、子を得るためにどれほど努力したことだろうか。けれどもどんなに食べ物を工夫しても、どんなに祈っても、結局、自分は夫アブラハムのため一子も産めなかったことが、サラの心の深い傷となっていた。今度こそという兆候が何度かあり、そのたびに失望して信じることに疲れてしまったということも、サラを臆病にさせていた。それに月のものがすでに去って久しい。今風にいえば、科学的に不可能な話である。
 しかし、人間の努力や人間の知恵が尽きたところに神のわざが始まろうとしていた。

 老妻の悲しげな微笑みを思い浮かべながらアブラハムがふと地面から目を上げると、三人の男が陽炎の向こうに、こちらを見て立っている。旅人であろうか。アブラハムは神秘を直感した。彼は三人を見つけるなり、駆けて行って、彼らの前にひれ伏した。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。 少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。 私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。」とアブラハムは口上を述べた。
 実は、この三人のうち二人は御使いであり、なんとひとりは旅人に身をやつした主なる神であった。アブラハムは、しもべに水を持ってこさせて、大樫の木陰に三人を憩わせ、食事の用意を始めた。少しばかりといいながら、アブラハムは、妻サラには一斗以上もの小麦をつかってたくさんの甘いパン菓子を焼かせ、子牛をほふって料理し、ヨーグルトと牛乳も出し、族長である彼自ら三人の旅人に給仕をした。
 「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」とある。芭蕉は東北の地へと旅立つとき、心細げに「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻の巷に離別の泪をそそぐ。」といって「行く春や鳥啼き魚の目は泪」と詠んでいる。穏やかな気候と治安のよさ比類ない江戸時代の日本においてさえ、昔は旅をすることには危険がともなっていた。まして昔パレスチナで旅をすることはたいへん危険なことであった。野獣・盗賊・飢え・渇き・激しい太陽と危険を数え上げればきりがない。旅人はよるべなき人だった。神が私たちを訪れるとき、威儀を正した王の姿をしては来られないし、富豪の姿をしてくるわけでもない。神が私たちの人生を訪れるときは、小さなよるべなき者の姿をしていらっしゃる。私たちは、その小さな、最も小さな人をどうもてなすかによって、天の報いを得ることに、あるいは失うことになる。あたかも水戸黄門がお忍びの姿、越後のちりめん問屋として来て、善人・悪人の正体を暴くように、神は小さき者の姿をしてやってきて私たち本性を暴かれるのである。アブラハムは幸いだった。彼は小さな者に仕えることを実践する義人であった。
 食事が終わろうとするとき、旅人はアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいるのか。」彼は答えた「天幕の中に。」すると三人のうちひとり、神が言われた。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻ってくる。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」
 サラはその人の背後、天幕の入り口で、このことばを聞いていた。彼女は心の中でわらった。『老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあるっていうの。それに主人も年寄りで。』
 すると神はアブラハムにおっしゃった。「サラはなぜ『私はほんとうに子を生めるでしょうか。こんなに年をとっているのに。』といって笑うのか。神に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今頃、定めたときに、あなたのところに戻ってくる。そのとき、サラには男の子ができている。」
神が「それに主人も年寄りで」というサラの内心のことばを省いていらっしゃるのが興味深い。アブラハムが気を悪くして夫婦のいさかいのもとにならぬように、配慮なさっているのである。
 心の中のつぶやきを聞きとがめられて、サラは鳥肌が立った。彼女は打ち消して言った「いいえ。私は笑いませんでした。」
しかし、神は言われた。「いや、確かにあなたは笑った。」
サラはからだの震えがしばらく止まらなかった。そして震えがとまったころ、サラの心のなかには久しく失っていた希望が湧き上がってきていた。『産まず女と言われてきた私も子を生むことができる。私にはできなくても、神がさせてくださる。』と。
人の力も、人の知恵も尽きたとき、神のわざが始まった。





11 ソドム

注>小説風にする暇がなく、また好ましくもないので、とりあえず今日はこれで。

主はアブラハムに言われた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。」
ソドムとゴモラは紀元前二千年頃、カナンの地においてもっとも栄えていた都市国家であった。この地は、メソポタミアとエジプトを結ぶ通商路だったので、行き来する隊商たちがこれらの都市に富と文物をもたらしたのである。
 しかし、経済的・文化的繁栄には腐敗がともなう。当時のカナンの地では、近親相姦・夫婦交換・同性愛さらに獣姦が習俗となっていた(レビ記十八章)。習俗となっていたということは、こうした行いが異常であるとか、罪であるとかいう認識そのものがなかったということである。英語にはソドミーという単語があるが、これはソドム風の生き方、男色を意味している。
 設計者は作られたものの正しい使用法を定めている。正しく用いれば有益だが、自分勝手な用い方をすれば被害をもたらすことになる。造り主は、被造物である私たち人間の生きるべき道を定めておられる。造り主の意図にしたがって私たちが生きていれば、私たちは造り主の祝福を味わうことができるが、造り主の意図に反して欲望のままに自分勝手な生き方を選択するならば、罪であり悲惨を味わわねばならない。
 性は神の意図に沿って正しく用いるならば、人間に喜びと繁栄をもたらす。神は結婚した男女に「生めよ。ふえよ。」と祝福のことばをかけられた。しかし、性を神の定めた範囲を超えて勝手な用い方をするならば、自分と自分の周囲の人々に悲惨をもたらし、神の怒りを買うことになるのである。
 ソドムの地の人々は、造り主である神に背を向けて生活するうちに、いったい何が正常な性道徳であるのかということそのものがわからなくなっていた。「愛」という美名のもとに、欲望のおもむくまま誰とでも寝るというありさまだったのである。もしこうした習俗が人類全体に広がるならば人類はみな腐り果ててしまう。そこで、神はこのソドムとゴモラの町に火と硫黄を降らせて滅ぼされた。今、その廃墟は死海の南端の湖底に沈んでいる。
 私たちは、この出来事を遠い四千年前の出来事としてすませられるだろうか。同じような出来事はイタリアのポンペイでも起こった。ソドム滅亡の記事を読んで、現代の世界は、この日本は、私たちは、いったい大丈夫なのだろうかという思いにとらわれてしまうのは、筆者だけではあるまい。

「さあ立って、逃げなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」創世記十九章十五節

「ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。キリストが現れる日にも、全くそのとおりです。」
ルカ福音書十七章





12 とりなし祈る


 「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。」
主なる神が、厳かにこう言われるのを鼓膜の内側に聞いて、アブラハムは鳥肌が立った。念頭に浮かんだのは、甥のロトのうしろ姿である。二十年前、家畜のための水場・草地争いをして、背を向けて出て行ったあのうしろ姿が。幼くして父親を失ったロトは、おじであるアブラハムを父親のように慕い、また子どものないアブラハムはこの甥をわが子のように思ってかかわってきた。この約束の地への旅立ちにも、ロトは同行してきた。だが、アブラハムと経済的問題でトラブルが生じると、ロトはさっさと低地の有利な地を選んでおじに背を向けて出て行ったのだった。そして行った先が、背徳の町ソドムであった。
主がソドムに審判を下そうとしておられるのを知って、アブラハムは神の前にひれ伏して叫んだ。
「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」
すると、主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」
ところが、主の答えを聞くと、アブラハムは不安になった。いや正しい者などあの町に五十人もいないかもしれない。四十五人ならどうです。いや三十人なら、いや二十人なら、そしてついに十人ならどうですかとアブラハムは、神に対して値切りに値切った。
すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」主も、このソドムを滅ぼしたくて滅ぼされるわけではない。主も惜しんでおられたのである。ソドムの町は悪に満ちていたが、それでもなお主はできるならばソドムを救ってやりたいと惜しまれた。
アブラハムは、命乞いが成功したものと思って、自分の天幕に帰ると床に就いた。ところが翌早朝、アブラハムはからだに地鳴りと激しい揺れを感じた。「しまった。ソドムには、ただの十人も正しい者がいなかったのだ!」と叫んで天幕を飛び出した。低地が一望できるところに来て、 ソドムとゴモラのほうを見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。「ロトー!」アブラハムが声のかぎりに叫んでも、だれも答える者はなかった。
しかし、実はロトは救われていた。「神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」とある。
主は、信じて祈る者の祈りをむなしくされないのである。



13 神の選びの器


 見下ろすと、あたりはまるでかまどのように、いたるところから煙が立ち昇っている。ソドムの惨状に、アブラハムはことばも出て来なかった。ふと我に返ると、アブラハムは家に急いで取って返した。そして言った。「さあ、この地を離れて南に旅立つのだ。」こう言うやいなや、アブラハムは自らさっさと天幕をたたんで一族の先頭に立ってエジプトとの国境に近いネゲブの地へと移住した。ソドムの記憶から逃げだしたかったのである。
 旅の途上、妻が声をかけてもアブラハムは黙りこくっていた。その心は恐怖と深い絶望にとらわれていた。あの黒い煙が立ち昇るソドムの惨状が脳裏から離れない。彼は神に心閉ざした。そして、アブラハムはここで二十五年前に犯したのと同じ過ちを犯してしまう。つまり、妻サラを妹と偽って保身を図ったのである。アブラハムは神を信じているときには、誰よりも勇敢で英雄的行動を取る男だったが、神に背を向けるときただの臆病な老人になってしまう、そういう人だったことは先に見たとおりである。
 今回、なにも知らずに自分の妾にとサラを召しいれたゲラルの領主はアビメレクという。サラが彼の宮殿にはいったとたん、宮殿の女という女は一人残らずからだに変調を来たしてしまう。「はて、どうしたことか・・・」と思い巡らしながら床に就いたアビメレクの夢の中に神が現れて警告なさった。「あなたが召しいれた女のゆえに、あなたは死ななければならない。あのサラという女は夫のある身である。」恐ろしくなったアビメレクは、すぐにサラをアブラハムに返した。
 主はこのとき、アビメレクにこうおっしゃった。「アブラハムに祈ってもらうがいい。彼は預言者だから。」
 翌朝、アビメレクはアブラハムを呼び寄せて憤りをぶつけた。「あなたはどういうつもりで、自分の妻を妹だなどと偽ったのだ。私はそれを知らずに、あなたの妻を我がものとし、罪を犯すところだったではないか。」そうアビメレクは言いながらも、アブラハムが神の預言者であることを思い出して言った。「わが一族の女たちのために祈ってくれ。あなたの妻が宮殿に入った直後から、女たちはみなからだがおかしくなってしまったのだ。」
 「はあ・・・・。」依頼されたアブラハムは、気のない返事をした。「『はあ』じゃなくて、祈ってくれるのか。」アビメレクは念を押すように言った。「ああ、まあいいですよ。」
 アブラハムは相変わらず虚脱状態だった。甥のロトもソドムの事件で失ったと彼は思いこんでいたし、脳裏にかまどのようになったソドムの光景が浮かぶとなお身の毛がよだつ。だが、彼は祈り始めた。
「主よ。万物を司りたもうお方よ。我らにいのちを与え、またいのちを奪い給う恐るべき偉大なる神よ。アビメレクの家の女たちを、その病から解放させたまえ。」ぽつりぽつりと祈り始めたのだが、祈っているうちにアブラハムの胸の内に名状しがたい熱い主に対する思いがあふれてきた。失われた信仰が湧き上がってきた。
 アビメレクの家の女たちは癒された。主は生きておられた。アブラハムは主の選びの器だったのである。




14 笑太 誕生


主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに【主】はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。
サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」     創世記二十一:一―七
 ソドム滅亡の直前、神はアブラハムに現れ来年の今頃約束の子を与えるとおっしゃった。アブラハムはつい苦い笑いをしてしまう。子種も尽きた老いぼれに子が生まれるわけなどあるまい、と思ったからである。しかし、神はたしかに彼が妻サラから子を得ることになるとおっしゃった。
 ついで別の機会に、神は今度は妻サラに聞こえるように、「来年の今頃、あなたの妻サラは子を産む」とおっしゃった。この声をテントの陰で聞いていたサラもまた心の中で皮肉な笑みを浮かべてしまう。「この婆さんと爺さんに、なにをおっしゃることやら。」と。無理もない。このときサラは八十九歳、夫アブラハムは九十九歳であった。神はサラの心のつぶやきを聞きとがめておっしゃった。「サラはなぜ笑うのか。」サラは恐ろしくなって「いいえ。笑いません。」と応じると、神は「いや。確かにあなたは笑った。」とおっしゃって去って行かれた。
 この直後、アブラハムたちはソドム滅亡という衝撃的な出来事に直面して恐怖のあまり、信仰が揺るがされた。しかし、前回見たアビメレクのもとでの出来事によって、たとえ地が動いて山が海の真ん中に移ることがあっても、たしかに神は生きておられ、かつ神はアブラハムをお選びになっているという事実が、二人の目の前に明らかにされた。この経験をとおして、アブラハムと妻の信仰はより堅固なものとして回復され、二人はあきらめていた子が得られると信じたのだった。
やがて十月十日がたち、息子が誕生する。長い待望の後にようやく生まれた一粒種はイサクと名づけられた。イサクとは「彼は笑う」という意味である。赤ん坊の笑顔がかわいかったのだろうか。いや、そうではない。自分と妻が神の約束を信じきれずに不信の笑いをしてしまったにもかかわらず、神はこの老いぼれ夫婦に対して喜ばしく笑いかけてくださったという意味である。
白髪の父とわが子を胸に抱いた母は、晴れやかな思いで天を見上げた。彼らの心の耳には、天から響く神の笑い声が聞こえるようだった。
「わたしは生ける神だ。いのちを与え、いのちを奪う全能の神だ。わたしは確かに、あなたがたに約束したことを果たした。」



15試練への備え


 アブラハムと妻サラの一粒種イサクはすくすくと成長し、乳離れの日がやって来た。今日の日本では母乳を断つ時期はとても早いが、昔は五歳くらいまでは母乳を与える習慣があった。おそらくイサクもこのとき、その程度の年齢には達していたのではなかろうか。一族の棟梁の跡取り息子の乳離れゆえ、一族挙げての宴会となった。

<未完>