苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主イエスの洗礼に倣って

        マタイ福音書3:13−17  
        2012年8月26日 小海主日礼拝


1. ヨハネの戸惑い

 バプテスマのヨハネは、イエス様がご自身を公にされた紀元30年頃、すでに相当に多くの人々に影響を与えるようになっていました。ヨハネの「悔い改めなさい。天の御国は近づいた。」という叫びは、ユダヤ地方だけでなく、遠くガリラヤ地方にまでも鳴り響いたので、後にイエス様の弟子となるシモン・ペテロやアンデレも、ユダヤまでやってきてヨハネの弟子になっていたことが、ヨハネ福音書の1章の後半に書かれています。
  ところが、ある日のことです。
「3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』」

ヨハネの躊躇には、二つの理由がありました。
第一に、ヨハネは先に、「私には、メシヤのくつの紐を解く値打ちもありません」といったところです。靴の紐を解くというのは当時の奴隷の仕事でした。メシヤと自分とを比べるならば、主人に対する奴隷どころではないほど、メシヤはすばらしく自分はつまらないものだ、月とすっぽんだと自覚していました。それなのに、スッポンが月にバプテスマを授けるなどということは、まことにおこがましいかぎりでした。むしろ、ヨハネこそキリスト・イエス様の前にへりくだって、自分の罪を告白して洗礼を受けるべきでした。

ヨハネがイエス様に洗礼を授けることを躊躇した第二の理由は、ヨハネバプテスマは罪の悔い改めのバプテスマであるからです。ヨハネのもとにやって来た人はだれもが、罪を告白して、洗礼を受けました。「私は盗みを働きました。」「私は主人を裏切りました」「私は・・・」と。ところが、イエス様はきよい神の御子、罪のないお方です。人類の罪のためにほふられるべき、きよい神の小羊です。どうして、イエス様に罪の悔改めのバプテスマを授けるべきでしょうか?
 このように、ヨハネがイエス様にバプテスマを授けることに躊躇をおぼえるというのは、理にかなったことでした。けれども、あえてイエス様はヨハネからバプテスマを受けようとなさったのです。どうしてでしょうか?

2.イエスバプテスマを受けるわけ・・・「正しいこと」とは

「 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。」(マタイ3:15)

 「すべての正しいことを実行する」とありますが、「すべての正しいこと」とはなんでしょうか? 被造物にすぎずメシヤの靴の紐をとく奴隷としての値打ちもないヨハネが、メシヤであるイエス様にバプテスマを授けることは、正しいことでしょうか?また、罪のない神の小羊であるイエス様に、罪の悔改めのバプテスマを授けることは「正しいこと」なのでしょうか?マタイ福音書は1章でも、「ヨセフは正しい人だった」と語って、正しいこととは何かについて私たちに課題をつきつけましたね。
 ある国に偉大な王がいました。王は行幸のときに、一人の不良青年に目を留めました。汚らわしい行いのなかに堕ちている愚かな青年であることが、その表情からも身なりからも言葉からも見て取れるような青年です。しかし、王はこの青年を哀れに思いました。そして、なんとかして更生させたいと思います。ですが、王が王として近づいても、彼は「あんたと俺とは身分がちがうんだよ」と心開かないでしょう。そこで、王は自ら王座を退き、一介の平民となって不良のような身なりをして彼の友となり、彼が悪の道から立ち直るように務めるのです。青年は、実は、多くのゆるされがたい罪を犯していたことが判明し、裁判にかけられ死刑判決がくだります。そのとき、元王は、彼を哀れに思い彼を助けてやりたいと思いました。そうして、裁判所に出かけて言います。「あの青年の代わりにわたしが死刑になりますから、彼を助けてやってください。」・・・こんなことを裁判所が認めるでしょうか。認めないでしょう。罰金の肩代わりならともかく、身代わりの死刑などありえないことです。この王の行為は正しいことでしょうか?
万物の主権者であり栄光に満ちた神の御子が、被造物である人となってこられ、その上、罪を贖うために十字架で自ら苦しみ死刑になられたというのは、破格の行いです。それは軽々に「正しいこと」とは言いがたいことです。常識からいえば、人間が創造主である神に背いて役に立たないものになったのですから、創造主はすべての人間を滅ぼしてしまうべきです。それが通常の意味での正しいことです。ところが、実際には、神に背いて、「神などいるものか」とうそぶいている人間を神は、なお愛されたのです。その愛のあまり、愛する御子を地上に人として救い主として送り、罪人のために十字架にかけられたのです。
 イエス様のおっしゃる「正しいこと」とはなんなのでしょう。イエス様の言われる「正しいこと」とは、「父の御心を行うこと」です。天の父の御心とはなんでしょうか。それは、「神は実にその一人子をおあたえになったほどに、世を愛された。」ということにほかなりません。父は、御子に命じました。「おまえが罪人の友となりなさい」。そのみこころにたがうために、罪なき神の御子イエスヨルダン川ヨハネからバプテスマを受けられたのでした。それは、三年ほど後、御子があたかも罪人であるかのように磔にされることを予示でした。ヨルダンの川面には、ゴルゴタの十字架が映っていたのです。罪人の友となり、罪人の救いのためにわが身を捨てること、それが父のみむねでした。その父の御旨にしたがうこと、それが御子にとっての「正しいこと」でした。

 「あいかわらず善悪を論じてばかりいるキリスト者が多いのはどうしたことだろう。しかし、善悪を論じることは、この世の人々がいつもしていることです。『わたしは正しい、君は間違っている』といつも彼らは争っています。しかし、キリストの弟子は、十字架を担うべきなのです。」という趣旨のことを、ある中国の伝道者がいいました。「私は正しい、あなたはまちがっている」という原理を貫くだけでよければ、神の御子が人となって地上にくだる必要はありませんでした。神様は正義のさばきをもって、罪ある私たちを裁き滅ぼしてしまえばよかったのです。けれども、神は愛のゆえに、御子を罪人の友としてこの世にくだし、御子は御父のみむねにしたがって十字架で私たちの罪をになわれました。善悪の筋目、それは大事なことです。しかし、私たちがキリストの弟子であるというならば、「私は正しい、あなたは間違っている」と言い立てているだけでは、キリストの弟子の値打ちがありません。キリストの弟子ならば、自分の義を言い立てる唇をおさえて、愛のゆえに十字架を背負うべきです。

3.キリストに倣って

「3:16 こうして、イエスバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。 3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」

 ここには、父と子と聖霊の三位一体の神が現れています。御子が、救い主として公生涯をスタートなさるにあたって、父子聖霊の三位一体が現れたのです。イエス様が十字架に向かって歩み始めるこのときに、天の父は聖霊をもって御子を励まし、「わたしは、お前を愛しているよ。お前のことを喜んでいるよ。」と天から御声をかけられたのでした。救いは人からではなく、三位一体の神の内側から始まったのです。三位一体の神の愛の決断から始まりました。
 私たちキリスト者の人生は、イエス・キリストのご生涯に重なって行くものなんだということに気づきます。私たちは、イエス・キリスト様が歩まれたように、それぞれの信仰の生涯を歩んでゆくのです。私たちは、おこがましいのですが、いわば小さなキリストとして、この地上に神様の愛を表すために遣わされて生きていきます。
私たちはクリスチャンとなって歩み始めるときにバプテスマを受けます。イエス様を模範としているのです。私たちのキリスト者人生は、イエス様がバプテスマを授けられてメシヤとしての人生を歩み始められたのを模範としています。
 そして、バプテスマを受けて歩み出した御子イエスに、父なる神はふたつの祝福と力づけを与えてくださいました。一つは聖霊を与えたこと、一つは「これはわたしの愛する子だ」と声をかけてくださったことです。
同じように、神様はクリスチャンに祝福を与えてくださいます。ひとつは聖霊を注いでくださること、もうひとつは「あなたをわたしの愛する子にしてあげよう。わたしはあなたを喜んでいるよ。」と御声をかけてくださることです。洗礼を受けることに躊躇している人がいるかもしれません。「私はイエス様を信じているけれど、なんでも三日坊主の私は一生涯、イエス様を信じとおして行けるだろうか?」もっともな躊躇だと思います。たしかに信仰生活には戦いがあります。この世の誘惑があります。しかし、感謝なことに、私たちの信仰生活は自力でがんばりとおさねばならない孤独なものではないのです。聖霊様がともにいてくださるのです。私たちのからだは聖霊の宮であり、聖霊がいてくださるところに父も御子とともにいてくださるのです。
 そして、神様は、私たちイエス様を信じる者を、御自分の子として格別に喜んでくださいます。イエス様は永遠から神様の実子でいらっしゃいますが、私たちはイエス様にむすばれて神の養子として受け入れていただいたのです。私たちは御子の御霊(聖霊)によって、神様を「おとうさん」と心から呼ぶことができるようになりました。そして、天の父は「わが子よ」と、愛をもってわたしたちを喜んでくださいます。神様は、罪がある私たちなのですが、私たちのことをキリストにあって赦し、赦しただけでなく、私たちを喜んでいてくださいます。これはたいへんすばらしい事実です。「君は、私の愛する子。私は、君の存在を喜んでいるよ。」と天の父は、あなたにも言ってくださっているのです。
  父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるとき、私たちは父からの愛を受け、助け主である聖霊をいただいて、生涯を歩んでいくことができるように保証をいただくのです。この地上の生涯を、十字架を担って行かれたキリストのあとに従うように生きてまいりましょう。


Matthew3:13-17
Jesus was baptized

When Jesus asked John to baptize him, John hesitated. There were two reasons. The one was that Jesus the messiah was much greater than John so it was natural that Jesus baptizes John. The other reason was that the baptism by John was called “the baptism of repentance”but Jesus was innocent. But Jesus said, ”Let it be so now; it is proper for us to do this to fulfill all righteousness.”

What is righteousness? It is right that God the creator punishes the sinners who do not obey Him. It is not natural that the Son of God becomes a man. It is not normal that an innocent man receives punishment. But God loved the sinners and wanted to save them. God told his Son to become the friend of sinners and to save them by being crucified. “Righteousness” of Jesus means obeying the Father’s will.
People who do not know God always discuss good and evil. They fight mutually, saying “I am right and you are wrong.” But the disciples of Jesus should bear their own cross. We should protect rather than blaming people because the Lord loved even his enemy.

When Jesus was baptized, the Father sent him the Holy Spirit and said, “ This is my Son whom I love; with him I am well pleased.” God gives those who follow Jesus the same blessings. He gives us the Holy Spirit who lives in us and encourages us. Our body is the temple of the Holy Spirit. And God makes us his adopted children. He treats us not as slaves but as beloved children.