苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

三位一体について

 自然宗教の種類として宗教学者はさまざまな分類をするが、神の数で分類するならば、多くの神々を立てる多神教と、ただ一つの非人格の神を立てる汎神論に分けられる。多神教における神々はオリエントの諸神話、ギリシャ神話、古事記などを見るとわかるように、人格的な神々である。多神教では複数の神々が愛したり憎んだり争ったりしているからである。

 しかし、哲学者たちは神話の神々が弱弱しく不道徳であることから、それらは「神」と呼ぶに値しない者たちであることを読み取って、そういう神々をも支配している万物の原理としての唯一のものこそ、「神」と呼ぶに値するものであると考えた。そうした考え方が汎神論である。汎神論における「神」はしばしば一つの大海にたとえられ、個物ー神々も人間も動物も植物もありとあらゆるものーは大海の表面に現れては消える波にたとえられる。そういうすべてを生み出しすべてを呑み込む「海」のような「神」が単一の非人格的原理であることは筆者には十分説明しきれないけれど、必然なのだろう。

 ひるがえって、聖書は「神はただひとりである」(申命記6:4)と宣言する。神は絶対者すなわち匹敵するものの無いお方であるから、必然的に唯一なのである。同時に聖書は、「父と子と聖霊の御名(単数)」(マタイ28:19)と言って、そのただひとりの神の内には、父と子と聖霊の交わりがあると啓示している。神のうちに父子聖霊のの交わりがあることは、神の人格性と必然的に結びついている。神が三位一体であることは、神が愛ある絶対者であることを意味している。

 今書いている教理問答の中で、このことをなんとか簡潔明瞭に表現できないものかと考え続けている。