苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

牧師の務め、学者の務め

 2018年にノーベル生理学賞を授与された本庶佑氏が、その受賞記者会見の前段で、「マスメディアの人たちはその論文がネイチャーだとかサイエンスに掲載されたことを云々するけれども、まあ、ネイチャー、サイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年たったらまあ残って1割だというふうに言っています・・・云々」と話しておられた。本庶氏は、だから自分で実験して確かめなければだめだというのがインタビューの本旨だが、ここでは前段に注目したい。
 もちろん学者は別に嘘を発表したくてしているわけではないが、学会における論文というものの性質上そういうことになるのである。学会において論文を出す場合、今まで言われていない新しいことを発表しなければならないからである。だから新説はまず、それまでの定説を覆したり、覆すまでは行かなくても、新しい知見を加える説なのである。当然、そこには誤りが多く含まれるのであり、本庶氏に言わせれば10年たって覆されない説は1割程度しかないのである。

 学者であれば、ある事柄について論文を発表するにあたっては、その事柄に関する先行研究を網羅的に知らなければならない。それを前提として、それに自分の新しい知見を加えたり、時には従来の説を根本から覆す学説を作り上げるのが仕事だからである。それは自然科学だけでなく、神学の学会発表においてもそうである。神学の世界についても、栗林輝夫氏が『現代神学の最前線』でいうところを引けば、現代神学はよく言えば百花繚乱、悪く言えば神学的無政府状態なのである。それは神学研究の場が、教会でなく大学の研究室にあったせいであろう。

 しかし、牧師の務めは神学者とは異なる。牧師の務めは、主から託されている信徒や求道者に間違いのない聖書の教理を教えて救いに導き、彼らの回心と霊的成長を助けることである。「間違いのない聖書の教理」とは数百年、千数百年の風雪に耐えて、人々を救いに導き、教会を育ててきた聖書の教えである。教え方、伝え方については、現代人に適合した工夫は必要であるが、学会の新説に飛びついて真理の本質は変えてはならない。勉強好きはよいことだけれど、信頼するに足るかどうかが不明の新説を教会における教えに取り込むようなことをすれば、教会にとってはたいへんな迷惑であり、人々を滅ぼすことにもなりかねない。19世紀の進歩史観の影響で、最新のものは最善のものであるという迷信的パラダイムが今もはびこっているから、牧師を養成する神学教育機関の教師たちは心していただきたいと思う。
 

「愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」(ユダ書3節)