苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

若い同労者の結婚のお祝いに

 

  今日は嬉しい日でした。この春に北海道のある町の教会に赴任した若い同労者が10月末に結婚をされ、今日はお祝いの会がその教会堂で行われたのでうかがってきました。新郎新婦ともに牧師の家庭に祈られて育った人で、結婚への導きについても祈りの中でたしかなものとされていったことについて、お話とムービーであかししてくださいました。考え方、祈りは、とても聖書的・伝統的でありながら、自由自在にIT機材を使ってのびのびとご自分たちを表現しているところは現代的で、ほんとにすごいなあと感心しました。

 筆者は新郎とは、二年前に千葉にある神学大学の夏期インターンとして苫小牧福音教会に来られたときに交わりがあり、また、春からはZOOMを使った神学読書会もいっしょにしています。また、新郎・新婦の父上とは親しい交わりがあります。そんなわけで、祝辞を依頼されたので、「鼻笛も吹いてあげよう」と二つ返事でお祝いのことばを述べてきました。ここに紹介しておきます。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

Kさん、Yさん、ご結婚おめでとうございます。お祝いに、讃美歌ではないのですが、まず鼻笛演奏をさせていただきます。中島みゆきさんの「糸」という歌です。

<演奏>

なぜめぐり逢うのかを 私たちは何もしらない

いつめぐり逢うのかを 私たちはいつもしらない

どこにいたの 生きてきたの

遠い空の下 ふたつの物語

縦の糸は あなた 横の糸はわたし

織りなす布は いつか誰かを あたためうるかもしれない

(中略)

縦の糸はK 横の糸はY

ふたつの糸が 出会えることを 人は仕合せと呼びます

  「糸」という歌は国民的歌謡なのだそうですが、私が知ったのは今年一月のことです。この歌を聞いて、胸を打たれました。それは、一つには「遠い空の下」に育った二人の出会いは、まさに神の摂理であることを思わせる冒頭の部分ですが、それ以上に、さびの部分「(二つの糸が)織りなす布はいつか誰かを暖めうるかもしれない」二節では「ほかの誰かの傷をおおうかもしれない」というところです。

 中世の修道士サン・ヴィクトールのリチャードの『三位一体論』に次のようなくだりがあります。

 「最高善、まったく完全な善である神においては、すべての善性が充満し、完全な形で存在している。そこで、すべての善性が完全に存在しているところでは、真の最高の愛が欠けていることはありえない。・・・しかるに、自己愛を持っている者は、厳密な意味では、愛(caritas)をもっているとはいえない。したがって愛情が愛になるためには、他者へ向かっていなければならない。それで位格(persona)が二つ以上存在しなければ、愛は決して存在することができない。

 もしだれかが自分の主要な喜びに他の者もあずかることを喜ばなければ、その人の愛はまだ完全ではない。したがって愛に第三者が参与することを許さないことは、ひどい弱さのしるしである。もしそれを許すことが優れたことであれば、それを喜んで受け入れることはいっそう優れたことである。最も優れたことは、その参与者を望んで求めることである。最初に述べたことは偉大なことである。第二に述べたことはいっそう偉大なことである。第三に述べたことは最も偉大なことである。したがって最高のかたに最も偉大なことを帰そう。最高の方に最もよいことを帰そう。」

  そうして、リチャードはこの父と子の「相互の愛」は、「共通の愛」として聖霊に向かっているといいます。それが、父と子と聖霊の三位一体なのです。

 要約してみます。真の愛は、自己愛でなく、他者へ注がれる愛です。だから、唯一の神は孤独な存在でなく、父と子の相互の愛のまじわりの存在です。しかも、父と子の相互の愛は最も偉大な愛ですから、「共通の愛」として第三者である聖霊に向かうのです。さらに、この聖三位一体の愛は閉ざされたものでなく、私たちをその交わりに招いていらっしゃるのです。

 私が小学生のころ、佐良直美さんの「世界は二人のために」というのがヒットしました。「愛、あなたと二人、花、あなたと二人・・・二人のため世界はあるの」という歌は、舞い上がった恋人たちの心情を歌ったものでした。しかし、「糸」の歌詞に胸打たれるのは、その愛が二人の間だけで燃えているだけでなく、二人を結ぶ愛が「共通の愛」として、「他の誰かを暖め」、また「他の誰かの傷を覆うかもしれない」とあるからです。神は私たち人間をご自分のかたちにおいて創造されましたが、その「神のかたち」とは男と女の関係を意味するのだと、ある神学者は解釈しました。だとするならば、夫婦の愛の在り方は、三位一体の神の愛のかたちを目指して聖化されていくべきものです。

 主が出会わせてくださったお二人の「相互の愛」が、さらに開かれた「共通の愛」として、主にあるK教会の兄弟姉妹に注がれ、また、まだ柵の外にいる滅びゆく魂を、神の交わりに招く愛となるように、と祈ります。