苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

理性の癖について

 デカルトは『方法序説』で、理性の働きは万人に共通のものであり、正しい方法を用いれば真理にいたることができると述べている。『方法序説』は、その理性の正しい使用方法について述べている。この正しい方法を用いるならば、理性は何者の影響も受けず、自律的に機能するのだというのである。つまり理性は客観的で中立的なのだというわけである。

 けれども、思想家たちの理性の使用を観察するならば、実際にはそうではない。思想家と呼ばれる人だけでなく、一般に人は理性を用いるに当たって、明らかにある癖があるのである。 

1.理性の衝動
 その癖の第一は、理性は認識対象に関して統一的に把握したいという衝動があるということである。理性は、対象に関して原理めいたことを見出すと、認識対象のすべてをその原理で統一的に説明できると言いたくてたまらなくなる。例を挙げてみよう。

 世界観についていえば、例えば唯物主義者は物的側面に世界の事象をすべて還元して説明できるという。マルクス主義者は宗教も道徳も芸術といった上部構造は、すべて経済的側面という下部構造から説明できる、と主張する。

 またたとえば、生物学的側面を絶対化する者は、トラの縞模様はジャングルの中を獲物に気づかれずに近づくためのものにすぎないと主張し、その美しいデザインには本質的な何ら意味がないとする。また彼は奇特な人がなした自己犠牲的行動も、種の保存のための本能的行動だと説明して得々としている。

 高次の側面のことを基礎的側面のことに還元して「~にすぎない」と言って統一的に捉えたというのである。実際には、対象の生物的側面をとらえただけのことなのであるが。こういうのを還元主義という。ここに様々なイズムが生じる。ドーイウェルトは、イズムを手厳しく思想的偶像崇拝と呼んでいる。世界の統一極は創造主以外にはありえないのに、人間は被造物世界のある側面を統一極であるかのように思い込んでいるのがもろもろのイズムだからである。
 こういう世界観における還元主義にかぎらず、聖書学や神学の分野のものであっても、自分がある画期的方法を見出すと、それで全部がわかった、説明できたと言いたいのが人間理性の習性である。子どもが小刀を手に入れたら、それでなんでも切ってみたくなるのと同じである。しかし、神が造られた世界も、神のことばである聖書も、多様にして統一的な全体なので、その一面だけ採り上げてわかった気になるのは、間違っている。

 

2.理性の再生

 キリストにあって再生した理性を持つ者と、再生していない理性を持つ者とで、意識するとせざるとに関わらず、理性の使用の仕方に違いがある。再生した理性を持つ者は神の栄光を現わそうとして理性を機能させる。星を観察しようと、生物の体の仕組みや人体の仕組みを観察しようと、創造主である神を意識し、神を崇めつつこれを理解しようとする。

 だが、再生した理性を持たない者は神を自分の視野・世界観から排除してしまいたいという願望を持っている。18世紀の啓蒙主義者たちは創造主の存在だけは認めざるを得なかったが、そこで彼らは創造のわざの後、神は世界に介入しないとする理神論を唱えた。カントは、現象界に関することは悟性をもって探求する自然科学の領域であり、神・魂・自由に関することは心をもって探求する宗教の領域であるとして、両者を峻別した。こうして科学的な分野において、神を持ち出すことを排除した。この枠組みと癖は今日まで続いている。

 電子顕微鏡が用いられるようになり、生物のからだの仕組みがとてつもなく精巧なものであり、進化のプロセスの中で偶然生じたとは言えないことがわかってきて、近年、被造物には知的デザインがそこにあることを認める学者が出て来ているが、多くの学者たちは、彼らを問答無用で排除し、それが「科学的」態度だ思い込んでいるのである。実際には自然主義的態度(自然がすべてであって自然を超える神がいることを否定する態度)にすぎないのだが。

 19世紀に進化論が登場すると、多くの啓蒙主義者たちは創造主の存在そのものを世界観から排除するための理論となると考えて飛びついた。進化論によって、自然科学の領域から神を徹底的に排除するということになっている。彼らのふるまいは、父の監督を嫌悪して、家を飛び出した放蕩息子と同じである。