苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

藤本満『聖書信仰』を読み終えて・・・ポストモダンの効能と使用上の注意

 本書は「聖書信仰」について、<宗教改革、17世紀プロテスタント正統主義、経験主義、合理主義とプリンストン神学、ファンダメンタリズム、戦前日本における聖書信仰、アメリカの新福音主義、第二世代のエリクソンピノック、シカゴ宣言、聖書信仰を『生きる』、戦後日本の聖書信仰、福音主義と批評学、新しいパラダイム、聖書の一人歩き?、神の言葉の物語性、今日的地平と終末的地平、言葉の力>と、多くの聖書学者・神学者・思想家たちを史的に扱いつつ豊かに展開するが、議論が拡散することなく、統一性をもっているのは、著者の神学者・教理史家としてのなみなみならぬ力量のなせるわざだろう。
 本書で、著者が首尾一貫して追究している課題は、近代理性主義というパラダイムに意図せずとりこまれて福音主義も見落としてきた、今この時、聖霊とともに働く聖書啓示のダイナミズムであると、私は読んだ。この追究には、表には出ていないが、恐らく著者自身の聖書を通しての生ける主との交わりの体験が裏打ちされているのだと思われる。
近代主義modernismは<理性と言語の普遍性>を前提としており、自由主義陣営は理性と言語をもって聖書をたまねぎの皮をむくようにして分析してその全体性と意味を見失ってしまった。また、普遍性を求めるがゆえに教会・礼拝共同体という聖書の根ざす場から聖書を切り離してしまったことも、聖書がわからなくなった理由である。
 他方、保守主義陣営は自由主義に対抗するために、聖書の原典の啓示における客観的・命題的真理性を偏り追求した結果、本来、宗教改革者が強調していた聖書を通して今働かれる聖霊のダイナミズムを見失ったのではないかという。そして自由主義陣営だけでなく保守主義陣営も、<理性と言語の普遍性>を前提とする近代主義パラダイムに捕らわれてきたことに問題があるとする。
 ポストモダン(近代後)は、<理性と言語の限界>つまり<理性と言語の個別性>を強調する。近代主義の反対に振り子がふれたのである。それは極端に振れれば、普遍的真理などは存在せず、すべては相対的で個別的なのだということになり、究極の結論は不可知論・懐疑論となる。テキスト理解ということでいえば、モダンにおいてはテキストは一つの意味を提示するとされ、テキスト理解とはその一つの意味に到達することとされていたが、ポストモダンにおいてはテキストは読者によって多様に理解されるものであるし、それでよしとされる。これがそのまま聖書解釈に適用されたら、滅茶苦茶なことになるのは言うまでもない。ただし、ポストモダンでは、言語は普遍的ではないが、その言語の用いられている共同体内ではそれなりの意味を持ち機能を果たすとされる(後期ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」)。
 だが、本書はむしろポストモダンの考え方が聖書学にもたらしつつある積極的効用を評価している。それは、モダニズムを背景として、たまねぎの皮むきを散々やって聖書の全体性を見失っていた自由主義神学陣営の神学者たちに、聖書の教会共同体における正典性に目覚めさせたことである。デカルト以来の理性主義は対象をひたすら細かく分析すれば真理に到達できると考えるから、聖書学者たちも聖書を各書に、各書を成したであろう文書史料に分析してきたが、結果、全体の意味を見失ってしまっていたのだが、ポストモダンのテキスト理解の考え方から、聖書を教会という共同体の場にとっての正典として受け留めてそのまま読むことが許されるということになったわけである。聖書は言語ゲームの場である教会におけるゲームとしての言葉であるということである。その言葉は近代理性主義におけるような普遍的なものでなく、共同体内に限られたものにすぎない。
 他方、ポストモダン保守主義陣営に与えるのではないかと著者が考える効用についていえば、命題的啓示だけに留まらない聖書啓示の豊かさに目覚めさせ、本来、宗教改革者や敬虔主義者たちが強調していた聖書とともに働いて啓示の受領者を変貌させる聖霊のダイナミックな働きに心開かせることである。

 感想として二点、メモしておく。
1.本書を読み終えて思い巡らすうちに気づいたことは、本書が追究している課題は、私がキリストへの信仰をもった当初から考えてきた課題と重なっているということである。それは、「神を知ること」と「神を愛すること」とは、なぜ分離してしまうのか?「神を愛すること」に資する「神を知ること」とはどういう知り方なのか?ということである。
 そして、神が教理書・組織神学書のような様態でなく、聖書という歴史・詩集・書簡・黙示という不思議な巻物の集成という様態で啓示をお与えになった理由は、私たちが神を単に知るのでなく、神を愛する者となるためであろうと考えた。
 このことは筆者が若い日に書いた『神を愛するための神学講座』の序論・啓示論と、横浜上野町教会で話させていただいた「神を知ること、神を愛すること」(その本の末尾に収録)に記している。  参照 http://gospel.sakura.ne.jp/wikiforj/index.php?%BF%C0%A4%F2%B0%A6%A4%B9%A4%EB%A4%BF%A4%E1%A4%CE%BF%C0%B3%D8%B9%D6%BA%C2%A1%CA%BF%E5%C1%F0%BD%A4%BC%A3%A1%CB

2.ポストモダンもまた、モダニズムの極端から反対に振れた一つのパラダイムであることを忘れないようにしなければならない。その行き着くところは、多元主義相対主義・不可知論・懐疑主義である。それはモダニズムにおいて見失われていた聖書の全体性、命題的啓示のみに留まらない啓示の豊かさを再発見させ、今、聖書とともに働いて読者と教会を変容させる聖霊のダイナミズムを再発見させるための薬にはなるかもしれないが、劇薬でもある。
 そこで、つぎのような点を心に留めておきたい。
①たしかに、理性と言語には限界があるが、神は我々に理性と言語を賜物としてお与えになったから、その限界をわきまえつつ正しく用いて、聖書を読むべきである。
②多元的豊かさに注目するのはよいが、多元主義に陥ってはならない。聖書啓示は多様性とともに統一性をもった啓示であるという点。
③聖書は、福音書や歴史書や詩書において物語的にも語るが、ローマ書などにおいて命題的にも真理を語る。
聖霊はダイナミックに働かれるが聖書を離れ、聖書に反して語られるわけではない。

追記
3.「1」に書いたことと少々整合性がないと思われるかもしれないが、もう一方で、客観的・命題的啓示と、主観的な生きた主の交わりとが、矛盾するものという扱いがされていることに違和感を感じてもいる。創造論について弁証的なことを学んだり、ウォーフィールドやパッカーをじっくりと読んだりして聖書の確かさを学んで知ったことが、日々のディボーションや説教で心燃やされることに益することはあっても、邪魔になることは少しもなかった。この経験と「1」に書いたことは少々場面というか次元の異なることと思われるが、まだよく説明できない。
 カルヴァンキリスト教綱要において、聖書が客観的な神のことばであることを論述しつつ、かつ、究極的には聖霊の内的証明を述べているというのが事実であって、あれかこれかではない。あれもこれもである。
 聖霊に霊感された客観的真理が、聖霊の照明によって主体的真理とされるというのが、福音主義の本来の聖書観である。客観的真理ならざるものが、聖霊の働きによって主体的真理となるというのでは、構造的には「いわしのかしらも信心」と同じことになってしまう。
 とはいえ、本書を通じて思わされたのは、これまで福音主義神学は聖書の霊感inspirationの追求にエネルギーを注いできたが、今後、照明illuminationという聖霊の働きをもっと神学的に考察を深めていくことが必要であるということである。

4.リベラル陣営におけるポストモダンの正典的聖書解釈は、表面的には福音主義の伝統的聖書解釈に近づいてきているように見えるが、実際には、それは言語ゲームとしての聖書解釈なのだということに注意しておく必要がある。福音主義者は、聖書は絶対者である神の普遍的な真理であると信じて聖書を読みまた説教をするのだが、リベラルな正典的聖書解釈はたとい「真理」ということばを用いてるとしても、それは共同体内における言語ゲームの用語としての普遍的でない「真理」にすぎないのである。