苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創世記1,2章と黙示録21,22章

 神のご計画の全体を見るためには、創世記の創造の記事と黙示録の神の王国の完成の記事を見る必要がある。スタートだけでなく、ゴールを見るのである。両者の類似点と相違点に着目する必要がある。

 創世記1,2章における被造物世界はほとんど手つかずの自然であり、そこにエデンの園が造られているという状態である。黙示録末尾の神の王国は都エルサレムが完成している。城外には田園や森が広がっているのであろうが。文化・文明の形成には意義があるということである。

 エデンの園には善悪の知識の木があったが、黙示録最終章のエルサレムには、それが存在しない。それはつまり、再び善悪の知識の木の試みに人が敗れることによって、人と世界に悲惨が生じることはないことを意味する。人間は創造においては「罪を犯しうる罪なき状態」だったが、究極の完成においては「罪を犯しえない罪なき状態」となる。

 エデンの園には、いのちの木が一本だったが、黙示録最終章ではいのちの木が並木をなしている。最終的な神の王国の完成における、いのちの豊かさは創造におけるいのちの豊かさとは比べ物にならないほど大きいことを意味している。

 エデンの園でアダムが地を相続することが求められたが、黙示録最終章では第二のアダムである子羊キリストが相続者・王となり、キリストを長子とする神の民は共同相続人・王としてこれを治めるようになっている。

 以上からわかることは、究極的救いとは、単に、堕落した状態から、堕落以前の状態に戻ることを意味するのではなく、創造のときに目指されていた神の王国の完成を意味するのである。伝統的改革派神学は救いを創造への復帰としてとらえる傾向が強いのであるが、それはカルヴァンが黙示録の注解を書かなかったせいなのかもしれない。逆に近代神学は終末論的でなければ神学ではないという傾向があって、終末ばかり見ているが、創造論的にもみなければ神のご計画の全体は見えない。創造論的に、終末論的に聖書は見るべきなのだ。