苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「神のことば」としての説教

 聖書が「神のことば」であるということと、聖書の解き明かしとしての説教が「神のことば」であるということとの違いはどこにあるのか?どのように考えればよいのだろうかとずっともやもやしていたが、今日、牧田吉和先生が導いてくださる土佐改革派神学塾でボーレン『説教学』第7章を読んで、光が与えられた。勉強になった。

聖霊の来臨が、受肉と区別されるのは、それが多様なものであり、多様な形式・様式をとって行われるという点にある」 ボーレン『説教学』第二部第7章「言葉と霊」p229

 誤りのない「神のことば」である聖書は、キリスト論的に把握される。つまり、キリストの二性を類比として、聖書には神言性と人言性があると把握する。

 他方、説教は聖霊論的に把握する。聖霊の賜物の多様性ということと、神の王国が「すでに」来たけれども、「いまだ」来ていないこの聖霊の時代にあって、神の子たちの聖化の道には多様性があり、かつ不完全であっても神の子であるように、説教は多様なスタイルが許されており、その途上性ゆえの誤りも含みつつもなお確かに「神のことば」であるということである。