1コリント13章
序 御霊の賜物について論じる文脈で
コリント教会ではさまざまな問題が生じていて、その問題の解決策を使徒パウロはこの手紙のなかで書き送っています。そうした問題のひとつが「御霊の賜物」をめぐる問題でした。使徒は、1コリント12章から14章にわたって「御霊の賜物」について論じています。御霊の実というのは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」というキリスト的な品性ですが、他方、「御霊の賜物」というのは、8-10節に見るような、聖霊が教会に属する人々に与えてくださるさまざまな能力を意味しています。
「12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、 12:10 ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」
御霊の賜物はこれ以外にも、本書の13章やローマ書13章やエペソ書などにもさまざま記されています。神様は、それぞれの時代・それぞれの地域にキリストの教会が、互いに助け合って成長していくために、その群れにとって必要な賜物を与えてくださるわけです。ですから、私たちは、それぞれ自分に神様がくださった役割をわきまえて、積極的に奉仕をしてキリストのからだである教会を建て上げていくことが大事なことです。
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(12:27)
パウロがコリント教会の兄弟姉妹に対して、このように語らねばならなかったのは、コリント教会には御霊の賜物をめぐって混乱が生じていたからでした。特に問題となっていたのは「異言の賜物」でした。異言というのは、祈りをするのに外国語や通常の理解を超えたことばを話すという現象です。コリント教会では異言の賜物をことさらにすぐれた賜物であると思い込んだ人々が教会の秩序を破壊していました。それは、口が「おれは口だ。おれはしゃべることも、食べることも、呼吸することもできるぞ」といばって、耳や目や鼻や手や足を軽んじるという愚かさのようなものです。口だってほかの器官がなければ、食べることも、しゃべることも、呼吸することもできないわけですから。
今日、私たちの教会では、説教をしたり、司会をしたり、オルガンやピアノやギターの奏楽をしたり、子どもメッセージをしたり、祈祷会でとりなし祈ったり、愛餐会の食事を準備したり、会計をしたり、会堂清掃をしたり、役員をしたり、献金をしたり、家庭集会の場を提供したり・・・とさまざまな賜物と奉仕がありますが、それらはみんな関連していて、助け合っているのです。不必要な賜物・奉仕などひとつもありません。
賜物は、御霊のプレゼントですからすばらしいことです。しかし、パウロは「さらにまさる道を示してあげましょう」と言ってコリント13章を語り始めるのです。それはすなわち、愛という道です。
1 賜物と愛と(1-3節)
まず13章1節から3節はどんなすばらしい賜物があったとしても、愛がなければ何の役にも立たないということを繰り返し強調しています。
「13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」
ここに挙げられる人の異言の賜物、御使いの異言の賜物、預言の賜物、奥義の賜物、知識の賜物、完全な信仰(強い信仰)、慈善の賜物、殉教の賜物というのは、みないわゆる御霊の賜物です。
「異言」というのが初代教会ではともかく、現代でもあるのかどうかは議論があるところですけれども、少なくとも異言の賜物をもっていると自覚している人はいます。そういう人に聞いたことがあるのですが、異言を話すと神様と直接つながったような感覚がするんだそうです。でも、異言で話して本人は恵まれたと感じているとしても、はじめて教会に来た人はひどい違和感を感じてつまずきとなるでしょう。愛の配慮がなくかえって人をつまずかせるならば、そんな異言の賜物は何の役にも立ちません。
「預言の賜物」というのは初代教会時代、新約聖書がまだ完成していない状況の中で、神様がある人々にことばを与えていたものです。これはふつうに理解できることばです。聖書が完成した今日で言えば、説教にあたる賜物ということができるでしょう。パウロは次の章で人々への愛と配慮という点では、異言を一万語話すよりも、5つの預言のほうがまさっていると言っています。でも、どんなにすばらしい預言も説教も、もし、愛をともなって真理を語らないとしたら、やはり何の役にも立ちません。
「奥義や知識の賜物」というのは、神のことばの深みの知識です。今日で言えば神学者や聖書学者といった人々に神様が与えている賜物と言ってよいでしょう。しかし、その知識をもって大きな本を書いたり、大学の神学部で高度な講義をしたとしても、もし神を愛し隣人を愛することに資するところがなければ、やはりなんの役にも立ちません。知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てるのです。
「完全な信仰」というのは、救いのための信仰ではなくて、山を動かすような強い信仰の賜物です。そういう強い信仰は、時には奇跡を起こすこともありますが、もしそれが神を愛し隣人を愛する動機からなしたのでなければ、なんの役にもたちません。
「貧しい人々に惜しまずほどこしをする」というのは慈善の賜物です。慈善の賜物といえば、愛そのもののように思いますが、実はそうではないと聖書は教えているのですね。愛がない慈善は偽善にすぎません。神の前では何の価値もないのです。
そして、「からだを焼かれるために渡す」と表現されているのは殉教の賜物です。殉教も神への愛を伴わないヒロイズムにすぎないなら、神の前に無益です。
こうした賜物・能力自体は良いものです。けれども、そういう賜物は、必ずしも愛がなくても用いることができるのです。しかし、愛もなくこれらの賜物を行使するならば、それは何の役にも立ちません。車にたとえて言えば、賜物とはその車に乗せられた高性能のエンジンです。愛とは、その車のハンドルやブレーキなどコントロール機能です。ハンドルとブレーキが利かない高性能の車に乗りたい人はどこにもいないでしょう。
2 愛について
愛とはどういうものでしょうか。この世では、特に歌謡曲なんかでは「愛」ということばがしばしば用いられるわけですが、聖書でいう愛とは中身が相当にちがっていると思います。神からあふれ流れ出て、私たちに注がれている愛の多様な側面を1コリント書13章は語っています。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(4-8節a)
愛はまず「寛容」であること、赦すことです。また、ほかの人に気前よくはかることです。多くの罪は愛の寛容をもって覆われるのです。愛のこの側面は、あわれみふかいということです。
「愛は親切」です。愛は寛容というのは、受身的に相手をありのまま受け入れることですが、親切は積極的に働きかける愛の一側面です。
「愛はねたみません。」喜ぶ者とともに喜ぶことです。友が成功をし、すばらしいことがあったなら、心から一緒に喜ぶのです。
「愛は自慢せず高慢になりません。」愛は謙虚です。
「愛は礼儀に反することをしない。」親しき仲には礼儀なしというのではなく、親しい仲にも礼儀をともなう愛がほんものです。それは相手もまた神のかたちにおいて創造されたということをわきまえた尊敬、敬意から出ることです。
愛は「自分の利益を求めない」。仕事をして正当な報酬を得ることを否定するのではありません。人を自分の利益をえるための手段、道具としないのです。
愛は怒らない。「イエス様も宮きよめのとき、たいそうお怒りになったではないか。聖なる怒りがあるのだ。」というのは事実ですが、自分の怒りを安易に聖なる怒りであると思い込むのは危険です。
愛は「人のした悪を思わない。」「思う」と訳されたロギゾマイは、「数える」という意味のことばです。相手がした悪を数えないのです。「またやったの?これで5回目よ。」とか「あなたはいつもそうなんだから。」とか言わない。人のした悪については初めてであるかのように、です。
といって、愛は不正を見逃し清濁併せ呑むのではなく、「不正を喜ばずに真理を喜ぶ」のです。愛は寛容ですが、不正をただす勇気をともなうのです。
神からあふれ流れて私たちの内側を潤し、他の人々に社会に注がれる愛は、ほんとうに完全な愛です。御霊の実を学んだときに理解したように、神のくださる愛はバランスがよく欠けがありません。ですから、愛の一面だけを捉えて「愛は寛容」が大事だといって、不正にも寛容でよいわけではありません。「親切」「ねたまず」「謙遜」「利他的」「人の悪を数えない」「真理を喜ぶ」といったすべての側面を含めて愛です。すべての多様な要素が円満に含まれるのが聖霊の下さる贈り物としての愛です。ですから、暗唱するばあいは、一部でなく全部セットで暗唱することが大切です。
3 賜物の時限性と愛の永続性
そして、最後に愛の永続性についてです。ここで聖書がいう愛は、人間のはかない愛ではありません。ここでいう愛は、もろもろの御霊の賜物と対比されています。
「13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。 13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。 13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」
預言の賜物、異言の賜物、知識の賜物というのは、新約聖書が完結していなかった初代教会の時代においては、神のみこころを知るために重要な賜物でした。けれども、やがて新約聖書が完成されていったときに、預言・異言・知識の賜物は必要性が少なくなって、すたれていきます。少なくとも必須ではなくなりました。このように御霊の賜物というのは時限的なものです。預言・知識・異言にかぎらず、それぞれの群れに、神様が必要な賜物を与えてくださいますが、その必要がなくなれば賜物はすたれます。
ある神学生がいました。彼が遣わされた奉仕教会は宣教師が始めた小さな群れで、子ども会をしたいと願っていました。神様はそれまで作詞作曲などしたことがないその神学生に、その時期特別な賜物を与えたので、彼はつぎからつぎに子ども向きの賛美の歌を与えてくださり、ひとつの歌集をつくるほどになったのです。でも、その教会での奉仕が終わったら、彼は作詞も作曲もしなくなりました。「何も浮かんでこなくなりましたよ。あれは神様が、あの時期、あの教会に必要なのでとくに与えてくださった賜物だったんだと思います。」と彼は話していました。賜物とはそういうものなのですね。
しかし、あらゆる時代を通じて、永続的に価値ある必須のものがあります。それは、信仰と希望と愛です。主イエスに顔と顔とをあわせる日まで、信仰と希望と愛とは永続するのです。これらのなかでもっとも優れているのは愛です。
主にお仕えするために、教会を建て上げるために、私たちにはそれぞれさまざまな何かの技術や能力・時間・お金など賜物が与えられていることです。それぞれに、主が託してくださったタラントですから、宝の持ち腐れにして、主が戻られたときに「怠け者のしもべだ」とお叱りを受けて歯軋りしないように、十分に活用して、主が迎えに来てくださったときには、「よくやった。よい忠実なしもべだ」と言っていただける生き方をしていきたいものです。一度かぎりの奉仕の人生ですから、悔いなく賜物をささげて主にお仕えしましょう。
ですが、賜物以上にたいせつなもの、神がくださった賜物を有益に用いることができるようにするもの、それは、愛です。神を愛し隣人を愛する愛をもって行なうならば、説教の奉仕、奏楽の奉仕、会堂清掃、愛餐会の準備、献金、とりなしの祈り、会計の奉仕などなどさまざまな奉仕は、神のご栄光をあらわすものとなります。
能力主義のこの時代ですが,能力をただしく活かすのは愛なのです。そして、永遠に価値あるものは愛なのです。愛を追い求めましょう。