苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「靴屋のマルチン」の聖書解釈は正しいか?

 マタイ福音書25章に「最も小さい者にしたのはわたしにしたのだ」と言われる主イエスのことばにおいて、「最も小さい者」とは誰を指しているのか?トルストイの「靴屋のマルチン」以来の読み方なのか、それ以前からそういう読み方がされていたのかわからないが、「最も小さい者」とは、一般に食べ物がない人、着物がない人、病人、投獄されている人、人権を抑圧されている弱い立場の人たちという理解をする人が多い。けれども、本来はそういう意味ではない。ここでいう「最も小さい者」とは、1世紀の福音書が書かれた時代の教会の文脈でいうと、キリストの福音を伝える巡回伝道者たちを意味していた。彼らは、福音のための旅をして、行った先々でキリスト者の家に泊めてもらって、そこを拠点として奉仕をした。病気になることもあれば、福音宣教のゆえに投獄されることもあった。そういうキリストの名を担う伝道者にすることは、「わたしに対してしたことなのだ」と、主イエスは言われたのである。

 マタイ福音書10章40-42節で、主イエスが弟子たちを二人一組で町々村々に派遣する時に語られた結びのことばと同じ文脈なのである。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。預言者預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」伝道者たちは、主イエスの名を担って遣わされた小さな兄弟たちであったから、彼らに対してすることは主イエスに対してすることなのである。

 キリスト教が弾圧下に置かれていて、巡回伝道者たちが活動していた時代には、このことは読者の目に明らかなことだったが、やがてキリスト教ローマ帝国の宗教となり、伝道者・牧師たちが貴族階級のような安定した富貴な立場の人々になっていき、キリスト教世界がヨーロッパに成立すると、主イエスの言われたことばの意味がわからなくなっていった。教皇権が最高潮の時代に、アッシジのフランチェスコが「小さな兄弟たち」という修道会をつくったのは原点への回帰を目指したことだったのだろう。では、「靴屋のマルチン」のような解釈はどう考えるべきだろう。テクスト本来の釈義としては間違いだけれど、「適用」としてまあ意味あることなのだろう。そもそもキリスト教世界では、本来の意味通りの解釈をしても、ほとんど意味がないだろうし。

 もっとも、現代でもキリスト教が禁圧下に置かれている国々は多く、日本であっても因習の強い田舎で孤軍奮闘している教会の伝道者たちにおいては、本来の意味そのままに読み取られることであろう。

 時代・文化の文脈があまりにも違うと、聖書が正確に釈義できなくなるということが往々にしてあるが、その一例である。