苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「そういう考え方は古い」という考え方は古い

 「ふん。そういう考え方は古いよ」といえば、相手の考えを貶めて一蹴できるように思っている人が多い。こういう考えの人は、物事が進歩し、昨日よりも今日、今日よりも明日のほうがよくなっているというパラダイムに立って、そういうことを言うのである。つまり、進歩史観に立っているわけである。進歩史観というのは大昔、もう200年以上も前、19世紀のヨーロッパで流行った思想であった。オーギュスト・コントカール・マルクスダーウィン、ハーバード・スペンサーといった人々の思想がそれにあたる。しかし、進歩史観は20世紀の二つの世界大戦で破綻してしまったものであり、むしろオズワルド・シュペングラー『西洋の没落』が説得力を持つようになった。進歩史観が21世紀に通用するとも思えない。

 ところでヨーロッパではルネサンス期には、退歩史観が流行していた。すなわち、古代は黄金時代で良きものがあり、次は銀の時代、次は銅の時代・・・と退歩してきた。だからよきものを取り戻すために古典古代を復興しようとしたのがルネサンスであった。退歩史観に立てば、「そういう考えは古い」というのは、「その考えはすばらしい!」という意味である。

 「昨日より今日、今日より明日のほうが良くなっている」などとということを聖書は教えてはいない。昨日より今日の方が良くなっていることもあれば、悪くなっていることもある。時代時代でよくなったり悪くなったりするというのが本当である。聖書を物差しとすれば、聖書から離れれば時代は悪くなり、聖書に立ち返れば時代は良くなるということである。だから、聖書を神のことばであると率直に信じている者にとって、聖書を神のことばであると率直に信じていた古代教会と宗教改革時代の古典には価値がある。

 それどころか、終末に向けてのものの見方について、主イエスは言われた。「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか。」(ルカ18:8)世は終りのときに向かって悪くなっていくとおっしゃるのである。

 聖書を信じるというならば、「そんな考えは古いよ」などということは言いたくないものである。