聖書学を学んできた友人と話をする機会があった。彼が修士論文を書いた頃は「六書説」とか、コンツェルマンの「時の中心」説とかの大流行だったけれども、今ではどちらも過去のことになってしまっているのだそうである。そういえば、私も大学生のとき旧約学の石田友雄氏が「六書(ヘクサテューク)説が今では主流である」などと話していたことを思い出した。コンツェルマン『時の中心』は、ルカの歴史観では、イエスの活動期間が時の中心であり、その前に律法と預言者の古い時代があり、後には教会時代が続くといっていたが、その後、多くの批判を受けて、今では聖書学では話題にすらならないという。
聖書学の世界では、次から次に新説・珍説が登場する。学者たちは新説でなければ学会発表できないから、とにかく新説を唱えたがる習性がある。だが大半の新説は、吟味されてさまざまの批判を受け、早晩、消えていく。学者たちはそれが仕事であるからいいけれど、もし教会で牧師がそういう本を読んで何年かごとに新説を唱えるとすれば、信徒にとっては大迷惑である。
こうした状況は聖書学だけでなく、現代神学の世界でも同じである。『現代神学の最前線』という本を読めば、現代神学の世界は10年くらいでくるくる動向が変わっているとレポートされている。なぜ、そういうことが起きるかといえば、聖書が基準でなく、時代思潮を基準にして聖書をつまみぐいしているからではなかろうか。聖書は神の言葉であるのだから、本来、聖書を基準にして時代を読むのが本当である。
牧師は、少しは学界の動向を知っておく必要はあるかもしれぬが、教会における務めは30年や20年や10年で消えていく泡沫的福音理解でなく、千数百年の風雪に耐えてきた古代教父ー宗教改革の福音理解をいのちあるものとして伝えることである。牧師はしもべとして教会に仕える身であるから、教会の信仰告白にもとることを教える権利はない。
また思う、「その説は古いよ。最新の学説は云々・・」というのが口癖の人がいるが、そういう人は知らずして古臭い19世紀の進歩史観に染められてしまっているのかもしれない。新しいものがより良いものだと思い込んでいるからである。聖書が神のことばであり物差しなのだから、それがすぐれた説であるか否かは、新しい古いでは決まらない。聖書の教えにかなっているかどうかが肝心である。